長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 239頁 ⅤⅠ−A−23 長崎湾
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
プロセイン・ドイツが観た幕末日本
239頁 ⅤⅠ−A−23 長崎湾
〔図版目録〕
「長崎 港湾」 (図録『Ansichten』第4冊、図版23) 1868年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作
〔図版解説〕 23 長崎 港湾
この湾は、入口は西に向き細長く延びた内港をなしており、しかも小さな入江がたくさんある。港口は狭くしかも前島に入口を守られており、海岸は高い岸壁なので、水面は概して湖のように静かである。それゆえ大船にとっては安全な停泊地となっている。とはいえ、大暴風雨がしばしば大災害をもたらすことがある。
町は湾の一番奥、湾口の向い側にある高い山々の麓にある。このスケッチは金比羅という丘から描いた。左手前に、出島を含む町の一部がある。その奥は外国人の新居留地である。ロシア人居留地—墓地と2,3の倉庫—、それに肥前侯の造船場は向い側の北岸にある。町に密接して寺院と墓地のある山腹があり、また耕地は水際から段丘状をなしてかなりの高さの所まで延びている。
山の頂きは大部分常緑の潅木におおわれている。船の出入の多いこの湾の岸辺を縁取るのは、数多くの寺院、村落、堡塁である。けれども、森がまっすぐに切り立った海岸に迫るほかの小さな入江には深い静けさがある。そこは、小さな漁村が入江の隅に隠れるように点在するのみなのである。
■ 確認結果
日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)
1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。
239頁の「ⅤⅠ−A−23 長崎湾」はフォトリトグラフ。「このスケッチは金比羅という丘から描いた」と解説している。金比羅山といっても、どの場所からだろうか。
長崎港の全体を俯瞰し、遠くに野母の権現山まで見える。かなり高い地点である。金比羅山の山頂ではなく、中腹の金比羅神社から150mほど歩く。
明治7年(1874)、フランス隊が金星太陽面通過観測が行うこととなった金比羅山の前面の山、「烏帽子山」(「天狗山」は山名誤り)と呼ばれるピークからの景色と思われる。現在の画像は、ズーム拡大。
現在は展望台ができ、ピラミッド型観測碑がある一帯は、長崎県指定史跡となっている。