長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−47 長崎 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−47 長崎 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
298頁  ⅤⅠⅠ−47 長崎、1861年、カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく版画。ⅤⅠⅠ−51の右側を参照。 
〔図版目録〕
作者不詳、「長崎の墓山から望む谷」、1864年。カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく木版画、1861年。出典:Spiess,215.
〔図版解説〕  なし

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
300・301頁  ⅤⅠⅠ−50 長崎全景のパノラマ写真、1861年。
300・301頁  ⅤⅠⅠ−51 長崎全景のパノラマ写真、1861年。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

298頁の「ⅤⅠⅠ−47 長崎」は、1864年の木版画。図版目録では、作者不詳、「長崎の墓山から望む谷」となっている。図版解説はないが、「ⅤⅠⅠ−51(50?)の右側を参照」とある。

「ⅤⅠⅠ−50」は、風頭山山頂近くからの長崎全景のパノラマ写真。1861年、カール・ビスマルクまたはアウグスト・ザハトラー作とされる。東京都写真美術館所蔵。
この右側の部分が、木版画と同じで、風頭山山頂近くの墓地から、新大工や西山方面を描いていることがわかる。春徳寺も確認できるようである。

一方、「ⅤⅠⅠ−51」は、同じ作者とされる長崎港の対岸、稲佐方面からの長崎全景のパノラマ写真。1861年当時の稲佐崎や丸尾海岸の様子がわかる。これには水の浦の入江や飽の浦の恵美須神社までは写っていない。
実際の撮影場所は、稲佐山中腹のホテル清風近くのピークか、水の浦トンネル上天狗岩あたりからと思われる。

長崎大学データベースには、「ⅤⅠⅠ−50」については、若宮神社の鳥居が写った作品があり、背景の景色を対比してもらいたい。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2193
https://misakimichi.com/archives/2389