月別アーカイブ: 2013年1月

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 163頁 ⅤⅠ−32 長崎 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 163頁 ⅤⅠ−32 長崎 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
163頁  ⅤⅠ−32 長崎、1861年ベルグによるスケッチ
〔図版目録〕
アルベルト・ベルグ画、「長崎」、鉛筆画スケッチ/紙、
「Nagasaki 61/Daitekudsi〔Daitokuji〕」と記されている、
1861年。近畿大学中央図書館所蔵。

163頁  ⅤⅠ−33 ⅤⅠ−32に基づくフォトリトグラフ 
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

163頁のⅤⅠ−32「長崎」は、1861年ベルグによるスケッチ。ⅤⅠ−33は ⅤⅠ−32に基づくフォトリトグラフ。
詳しい場所説明がないが、図版目録に〔Daitokuji〕とあるのに注目しよう。

これは、海に張り出した出島海岸側から、河口の石橋と右背後に大徳寺の丘を描いている。左奥の山は愛宕山、麓にある山門の寺は清水寺である。
169頁の石橋は、左上に「DESIMA」と書き込みがあるため、出島の橋に間違いないだろうが、この163頁の中央左のアーチ式石橋は、新地蔵の銅座側門口に架かっていた石橋「新地橋」であろう。

上野彦馬が明治6年(1873)頃、同じような風景と石橋を撮影した貴重な古写真がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2764
長崎歴史文化博物館の郷土資料、古賀文庫「長崎橋梁台帳」によると、「新地橋」は、「文化九年九月石橋ニ更ム」とある。

長崎の古写真考 目録番号:2866 諏訪神社境内(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2866 諏訪神社境内(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2866 諏訪神社境内(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
長坂を上がり総門をくぐった正面から、左側に肥前有田(現佐賀県有田町)から明治4年(1871)に献納された高さ約2.7mの陶器製常夜燈、街灯、右側に明治3年(1870)奉納の青銅の馬、明治2年(1869)に再建された諏訪神社中門の風景である。中門は別名四礎門とも言われた。木造檜皮葺、流破風造りの建物で、正面には菊花紋、屋根下には「正一位諏訪三所」の扁額が掲げられていたが、写真ではみえない。中門の左右は透塀で、左右の回廊に続いている。前の広場は能馬場と呼ばれ、能舞台があったところである。諏訪神社は現在の松森神社の地に、寛永2年(1625)再興され、慶安4年(1651)現在の場所に遷宮した。この中門は延寳7年(1679)に創建され、享保3年(1734)の改修後も度々修理が行われたが、安政4年(1857)の火災により焼失した。明治2年(1869)に再建され、さらに昭和58年(1983)御鎮座360年を迎えて大改修が行われた。

目録番号:3871 諏訪神社(3)
〔画像解説〕
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の左側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。

目録番号:2867 諏訪神社の長坂(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
下から順に秋の大祭の奉納踊りが舞われる踊馬場、その見物席となる73段の長坂、長坂の登り口に享保7年(1722)町年寄高木作右衛門献納の常夜灯、総門及び回廊を踊馬場入口から撮影した諏訪神社の風景である。諏訪神社は長崎の氏神さまとして市民に親しまれている。この社には、諏訪大明神、森崎大権現、住吉大明神の三社が祭られている。10月7-9日には、秋の大祭「おくんち」が行われ、京都の祇園祭、大阪の天満祭と共に日本三大祭と称される。江戸時代には、奉行所から自粛令が出されるほどの豪華さであった。天保13年(1842)には、祭礼に大金をかけ、また風俗をみだす舞踊りを禁じ、全て木綿を使用させる禁止令がだされている。長坂は、市民がおくんちを無料で見物できる特等席である。また、坂本竜馬が設立した「亀山社中」の制服、白袴を模倣した白いトッポ袖の上衣を着て祭りを盛り上げる「白トッポ組」が陣取る場所でもある。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年1月19日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
2866「諏訪神社境内(1)」の作品が、「諏訪神社の中門 檜皮ぶき 優雅な建物」として掲載された。新聞記事の解説で、ひっかかったのは、撮影者を推定する次のキャプションの部分。

「…写真では切れていますが、左下に「218 SUWA TEMPLE NAGASAKI」と印字されています。この番号とタイトルをイギリスの写真研究家テリー・ベネットの『日本古写真 収集者のためのガイド』に収載された作家別作品リストに照らすと、横浜の写真家で小川一真の弟子の江南信國が撮影者であることがわかります。
撮影時期は1890年代。江南は「横浜写真」と呼ばれる着色の大型アルバムに対して、小ぶりの着色写真やガラス・ランタンスライドと呼ばれた幻灯機用のステレオ・ガラス写真を得意としていました。…」

撮影者は、はたして「江南信國」だろうか。目録番号:2866「諏訪神社境内(1)」の左下に
「218」は、超高精細画像で拡大すると番号間違い。目録番号:3871「諏訪神社(3)」が、同じ写真である。左端がカットなし「A 128」が正しい。
長坂を写した目録番号:2867「諏訪神社の長坂(2)」が、「A 127」だから、その続きの写真である。場所的にもそうなる。モデルの配置・人物も同じようであるから、対比してもらいたい。

OLD PHOTOS of JAPANから、「江南信國」の作品を掲げる。キャプションの印字に区分「A」はなく、英字の書体が違う。
古写真研究の東京在住、前慶応大学教授高橋先生から、中島川の木橋の作品の研究となるが、次のような見解を聞いている。この項は、本ブログ次を参照
https://misakimichi.com/archives/3543

「私は明治25年に長崎に開業した為政写真館の撮影と睨んでいます。アルバムに為政の印があるからです。大文字のAに写真番号とタイトルをアルファベットの大文字で入れた写真が特徴で、横浜の金丸写真館と提携して長崎の風景写真をシリーズで出していました。金丸写真館の写真と番号が連続的に繋がります」

「江南写真館の写真は、ベネットの「コレクターズ・データガイド」によると、200から268までが長崎シリーズになっています。238もその中に入るかもしれません。しかし、江南のアルバムの写真はNo.無しの大文字の番号とキャプション付きですので、江南から買ってアレンジしたのかもしれません。玉村康三郎の可能性はありません」

以上から撮影者は、超高精細画像の解説どおり「上野彦馬?」かその関係者、または明治23年に長崎に開業しシリーズを出した「為政写真館」の可能性もある。
データベースの写真が小さいうえ、アルバムなどの現物を、私は見ることができない。長崎大学附属図書館及び「長崎今昔」執筆者において、これら作品の正しい研究をお願いしたい。

長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2013年1月 

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長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2013年1月

2013年1月20日(日)晴。長崎半島東回りみさき道の脇岬村路踏査と草刈り整備。参加16人。山のベテラン、会外のO女、S氏も特別参加。みさき道歩会の例会。
川原公園前9:45—川原木場10:25—界橋11:12—岬木場12:09—サイクリング道路終点12:25(昼食)13:00—長迫13:15—殿隠山鞍部13:40−水道取水場14:57—脇岬観音寺入口15:25(徒歩距離 約10km)

栄上—為石—川原—小池上明治道塚地点—川原木場の途中までは、昨年4月実施済み。今回はその続きで、脇岬村路の踏跡をたどる。
川原木場公民館の左角には、地元「熊川力士の碑」がある。上の農道をつめると山道となり、川原村・脇津村界が熊川。長崎半島随一の桁石橋「界橋」が残る。
生目八幡神社の方が旧道。野母崎ゴルフ場入口道路を過ぎ、岬木場へ出る。木村住建で山村ミニチュアも見学。サイクリング道路終点で昼食。

午後は、風車のある長迫のモトクロス場を過ぎ、殿隠山鞍部まではいつものコース。誤解が多いが観音参りのみさき道は、これから殿隠山や遠見山への尾根道には向わない。そのまま脇岬へ下る。現在の農道に沿って、脇岬村路の道が残る。一部ヤブがひどく、突破できないところは小沢を下り、前野母崎町の水道取水場へ出た。
あとは、県道をそのまま歩き、観音寺入口バス停に着いた。寺は割愛。今回のルートは地図を参照。整備といっても、やっと歩ける程度に。こんな道をだれも、今更歩かない。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30490047.html

長崎外の古写真考 幕末・明治 107頁 瀬戸内海

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長崎外の幕末・明治期古写真考 幕末・明治 107頁 瀬戸内海

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

写真で見る 幕末・明治
107頁  瀬戸内海  1880年代 金幣アルバム
〔画像解説〕
小島が点在する美しい景観は瀬戸内海の特色。遠くに小舟が浮かぶこの写真は、静かさを感じさせる。瀬戸内海は国立公園として、今も美しさを保っているが、瀬戸大橋が架かるなど、景観は変わりつつある。

目録番号:3221 備後鞆津(2)
〔画像解説〕
福山・鞆港の東側にある大可島を東浜から望む。大可島は南北朝期に南朝方の拠点として大可島城が築かれた。江戸時代には,円福寺や鞆港出入りする船舶を監視するための船番所が置かれた。写真では現在では干拓により消滅した各商家からの突出し突堤や階段を写されている。

■ 確認結果

世界文化社「写真で見る 幕末・明治」1990年発行の107頁「瀬戸内海」は、瀬戸内海でも具体的な撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:3221「備後鞆津(2)」の解説どおり、福山・鞆港の東側にある大可島を東浜から望んでいる。

横浜開港資料館・(財)横浜開港資料普及協会編「彩色アルバム 明治の日本 <横浜写真>の世界」平成2年発行の157頁「西日本 4 鞆津」の解説も、次のとおり。
4 鞆 津
〔画像解説〕
〔4〕〔5〕は尾道の東方沼隈半島先に位置する鞆津(現福山市内)で、〔4〕は鞆の湊入口北に突出した陸繋島の大可(おおが)島。南北朝の動乱期に南朝方が城を占拠したことで知られる。現在、城跡は円福寺境内となっている。…

長崎外の古写真考 幕末・明治 69頁 街道からの富士

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長崎外の幕末・明治期古写真考 幕末・明治 69頁 街道からの富士

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

写真で見る 幕末・明治
69頁  街道からの富士  ファサリ商会
〔画像解説〕
優美な富士山と松並木、美しい杉橋と農家の組み合わせがすばらしい。現在ではほとんど見られなくなった風景である。

目録番号: 169 鈴川河合橋からの富士山(1)
〔画像解説〕
鈴川は駿河湾に面し、潤井川河口左岸に位置する旧幕府領。富士、松並木、木橋、藁葺きの家、川船と船頭と、美しく、凝った構図になっている。なお、この角度、構図の富士の別の写真が、小沢健志監修『写真で見る幕末・明治』(69頁)に「街道からの富士 ファサリ商会」として紹介されている。

目録番号:4233 東海道の橋からの富士山
〔画像解説〕
富士市鈴川にある河合橋(かわいばし)から北方の富士山を遠望したもの。河合橋は沼川を渡る東海道に架けられた橋である。西側の橋の袂には特徴的な松が生え、東側の袂は船着場となり茅葺き屋根の小屋が建つ。橋上に馬車鉄道の軌道がないため、明治23年以前の撮影である。

■ 確認結果

世界文化社「写真で見る 幕末・明治」1990年発行の69頁「街道からの富士  ファサリ商会」は、街道は東海道だが、どこの橋か説明していない。

データベースの目録番号: 169「鈴川河合橋からの富士山(1)」や、目録番号:4233「東海道の橋からの富士山」の解説どおり、現富士市鈴川にあった河合橋(かわいばし)である。
データベースのタイトルは、統一が必要。

長崎外の古写真考 目録番号:5564 備後鞆津(仙酔島)(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5564 備後鞆津(仙酔島)(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5564 備後鞆津(仙酔島)(4)

明治の日本 <横浜写真>の世界
157頁  西日本 5 鞆 津
〔画像解説〕
〔4〕〔5〕は尾道の東方沼隈半島先に位置する鞆津(現福山市内)で、…〔5〕は仙酔島と鞆の間に位置する百貫島。島上に弁才天祠があることから弁天島と称する。手前の岩場は仙酔島の端であろう。

■ 確認結果

目録番号:5564「備後鞆津(仙酔島)(4)」は、画像解説がない。タイトルからすると誤解が生じるだろう。
横浜開港資料館・(財)横浜開港資料普及協会編「彩色アルバム 明治の日本 <横浜写真>の世界」平成2年発行の157頁「西日本 5 鞆津」の解説は、上記のとおり。
仙酔島は手前の岩場で、中央の「弁天島」(百貫島)を主に写しているのではないか。ほかの関連作品も同じ。

長崎外の古写真考 目録番号:2375 老夫婦の肖像

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2375 老夫婦の肖像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2375 老夫婦の肖像

日本写真全集 1 写真の幕あけ
108頁  125 老夫婦像  小川一真 明治25年(1892) キャビネ判
〔画像解説〕
老婦が夫の肩に首をもたげた愛情あふれるこのポートレートは、小川一真による両親像である。明治14年(1881)アメリカへ渡り、ボストンで写真を習得した小川一真ならではのヒューマニティーに富んだポートレートとなっている。丸く周囲をボカす手法は当時の流行であった。

■ 確認結果

目録番号:2375「老夫婦の肖像」は、撮影者未詳となっている。
「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の108頁「125 老夫婦像」は、同じ写真である。
撮影者は「小川一真」、撮影年代は「明治25年(1892)」となっているので、調査が必要。
図版リストは、小川一真(Isshin Ogawa)『アルバムTOKAIDO』(明治25年刊)より。

長崎外の古写真考 写真の幕あけ 114 僧侶の式典

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長崎外の幕末・明治期古写真考 写真の幕あけ 114 僧侶の式典

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

日本写真全集 1 写真の幕あけ
98.99頁  114 僧侶の式典  撮影者不詳 明治中期 鶏卵紙に着色 四切
〔画像解説〕
坂を歩いてくる僧侶の行列と群集を高い位置から撮影し、群集がかもしだす独特の臨場感を写しとっている。写されることを意識してか、一様に静止し、全員カメラの方を見ている様子がわかる。僧侶のカラフルな盛装にくらべ、それをとり囲む庶民の服装の質素さが、当時の生活の様子を伝えている。

目録番号:1764 大法要の人出
〔画像解説〕
大規模な法要である。中央に2列に並んだ僧侶の長い列が続く。周囲に溢れた人々がひしめいている。

■ 確認結果

「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の98.99頁にある「114 僧侶の式典」は、何の式典ないし法要かわからない。
データベースの目録番号:1764「大法要の人出」も、同じである。撮影者は「鈴木真一」か。

これは、東京の池上本門寺で明治14年に行われた、「日蓮入滅後600年遠忌」の模様だと言われる。
石黒敬章編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊の285頁に、次のとおり解説している。HP「石黒コレクション」にも同じ写真が掲載されている。

【日蓮上人遠忌】Ⅱ16−13
本門寺は日蓮宗開祖日蓮の入滅の地である。日蓮は療養のため身延山を出立し常陸へ向かう途次、池上の領主で本門寺の創立者でもある池上宗仲の屋敷で、弘安5年(1282)10月13日に入滅。この写真は明治14年に池上本門寺で行われた、日蓮入滅後600年遠忌の模様だと言われる。
多くの僧侶と見物人が写っている。明治14年は日本に乾板はまだ伝わっていないので、湿板写真法で撮られた筈だ。しかし、これ程多くの人がいて、殆どブレていないのが不思議だ。写真師は不詳だが、相当の技術をもった人に違いない。場所は、経蔵背後の古くからある車坂だろうか。六切大。〔Y〕

この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2664

長崎外の古写真考 写真の幕あけ 106 団扇を持つ女

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長崎外の幕末・明治期古写真考 写真の幕あけ 106 団扇を持つ女

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

日本写真全集 1 写真の幕あけ
92頁  106 団扇を持つ女  撮影者不詳 明治中期 鶏卵紙に着色 四切
〔画像解説〕
浴衣の柄、色調からその着こなしのポーズ、笑顔のつくり方など、いかにも写真馴れしていることがわかる。モデルのポーズは現代にも通用するほど大胆である。背景が白くとんでいるのは、モデルをきわだたせるため印画づくりの段階で処理したものと思われ、洒落た画像をつくりだしている。

目録番号:4221 笑う女性
〔画像解説〕
両腕を首の後ろで組んで、くつろいだポーズをとる丸髷の女性で、黒繻子(くろしゅす)の襟をつけた大柄な縦縞の普段着を着ている。ただ綸子(りんす)文様の帯は不釣合である。

目録番号:5604 笑う日傘の女性  (掲載略)

■ 確認結果

「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の92頁にある「106 団扇を持つ女」の名前は、当時の大アイドル「笑子(えみこ)ちゃん」。みなさん、顔をよく覚えてね。
目録番号:4221「笑う女性」と、目録番号:5604「笑う日傘の女性」のモデルと同一人である。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2790

笑う写真を日本人に根づかせることに寄与した最大の功労者。いつまでも名無し有名人では困るからと、著者石黒氏が勝手に、「笑子(えみこ)ちゃん」と命名。次の資料がある。
石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷16,21頁の女性とそのポーズ。目録番号の写真とほとんど似ている。同解説は次のとおり。

笑う写真のルーツを探る
〔写真13〜23〕絵はがきになった「笑子ちゃん」。この女性の笑って絵はがきは40〜50種ありそうだ。コロタイプ印刷、手彩色。発行は明治38〜45年頃だが、撮影は明治25〜35年であろう。明治35年発行の横浜写真のアルバムに同じ写真が含まれているので、明治35年以前であることは確実。

A.ファサリは、明治23年(1890)イタリアに帰国した。写真館は共同出資者や日本人写真家の手で経営が続けられたが、著者がこのA.ファサリ?の作品に、本文でもふれられていないのは、何かあるのだろうか。
年表風に整理した18頁に、○明治20〜35年 横浜写真に笑う「笑子ちゃん」登場。とは記している。