月別アーカイブ: 2013年1月

長崎外の古写真考 写真の幕あけ 101 医 者

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長崎外の幕末・明治期古写真考 写真の幕あけ 101 医 者

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

日本写真全集 1 写真の幕あけ
88頁  101 医 者  撮影者不詳 明治中期 鶏卵紙に着色 四切
〔画像解説〕
医者は漢方医。脇差を腰にした医者が、薬箱をひろげ、中年の女房の脈を入念にみているという設定で、その表情が面白い。

目録番号:4079 脈をとる医者(3)
〔画像解説〕
女性患者の脈をとる坊主頭の医者。医者の傍には往診用の薬箱と引き出し。女性の傍には髪をくずさないための高枕が置かれ、ここにピントが合っている。セットされたスタジオで撮られた外国人向けの彩色写真と思われる。

■ 確認結果

「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の88頁にある「101 医者」は、撮影者不詳となっている。
データベースの目録番号:4079「脈をとる医者(3)」も、撮影者:スチルフリードであるが、「F.ベアト」の撮影ではないだろうか。

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊154頁に「204.患者の脈をとる医者」として掲載されている。
同写真集2の64頁にも、同じ写真「92.医師と患者」がある。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2814

長崎外の古写真考 写真の幕あけ 53 滝

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長崎外の幕末・明治期古写真考 写真の幕あけ 53 滝

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

日本写真全集 1 写真の幕あけ
47頁  53 滝  撮影者不詳 明治中期 鶏卵紙に着色 四切
〔画像解説〕
富士川の南西麓芝川の上流の断崖にかかる滝。人物配置により滝の大きさと奥行をもたらしている。滝の手前の川の流れ具合から露出時間は1/2〜1秒ぐらいと思われる。

目録番号:4282 白糸の滝(4)
〔画像解説〕
富士宮市上井出にある白糸の滝を遠くから全容がわかるように撮影したもの。高さ20m、幅200mの湾曲した絶壁の新旧の溶岩層の間から湧き出した数百条の細い滝となって滝壺に落ちる。滝の水は芝川(しばかわ)となって富士川に注ぐ。昭和11年(1936)に国の名勝天然記念物に指定された。

■ 確認結果

「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の47頁にある「53 滝」は、肝心な滝の名前を説明していない。
データベースの目録番号:4283「白糸の滝(4)」のとおり、富士宮市上井出の芝川上流にかかる滝「白糸の滝」であろう。

長崎外の古写真考 写真の幕あけ 52 吊り橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 写真の幕あけ 52 吊り橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

日本写真全集 1 写真の幕あけ
46頁  52 吊り橋  撮影者不詳 明治中期 鶏卵紙に着色 四切
〔画像解説〕
天秤棒をかついだり、笠をかぶった人物たちを配置することで、写真に時代のリアリティをもたせている。右下の白ヌキ番号は写真とネガの照合をたやすくする整理番号と思われる。

目録番号:4283 富士川に架かる吊橋釜口橋(3)
〔画像解説〕
芝川町長貫(ながぬき)と瀬戸島(せとじま)の間の富士川の難所釜口峡(かまぐちきょう)に架かる吊り橋を南から撮影したもの。富士川は激流のため、架橋が難しく江戸時代にはここが富士川に架かる唯一の橋であった。両岸が切り立った崖で、川幅が最も狭い場所である。板を並べ藤蔓で縛ったスノコのような橋の上に5・6人が乗る。蔓だけの吊り橋も架かっている。

■ 確認結果

「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の46頁にある「52 吊り橋」は、撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:4283「富士川に架かる吊橋釜口橋(3)」のとおり、富士川の難所釜口峡(かまぐちきょう)に架かっていた吊り橋「釜口橋」であろう。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2591

釜口橋 (富士川)   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

静岡県富士宮市にある橋。富士川に架かる橋としては一番短い橋である。

眼下に富士川水運最大の難所と呼ばれていた釜口峡があり、対岸と渡し船で渡るのが非常に困難な場所であった。一方で川幅が他の地点と比べて非常に狭かったことから古くから川の東側と中間点にある瀬戸島の間に吊り橋などで架橋が行われていた。しかし架けられた吊り橋は非常に不安定であり、その厳しさは富岳紀行や歌川広重 『富士川上流雪中の図』、長崎大学付属図書館に所蔵している絵画でも伺うことが出来る。

1608年(慶長13年)に徳川家康が富士山本宮浅間大社を参拝する際釜口橋を渡っているが、この際は板橋を架設し渡河している。吊り橋はたびたび落橋しているが、瀬戸島の西の対岸の間も銚子の口と呼ばれる難所であり、瀬戸島の住人にとって生活に必要な橋であることからすぐに再架設されていた。

明治時代になると針金で結んだものになったが、1918年(大正7年)に歩兵第60連隊が橋を渡ろうとしたところ落橋し、7人の死者を出すなどその厳しさは相変わらずであった。1951年(昭和26年)に現在のトラス橋に架け替えられ、ようやく安心して渡ることが出来るようになっている。

長崎外の古写真考 写真の幕あけ 50 渡し舟

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長崎外の幕末・明治期古写真考 写真の幕あけ 50 渡し舟

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

日本写真全集 1 写真の幕あけ
45頁  50 渡し舟  撮影者不詳 明治中期 鶏卵紙に着色 四切
〔画像解説〕
人や人力車を乗せた舟、荷を負う馬などを配し、渡し場の情景を的確に写しとっている。背景に写りこんでいる子供たちは、撮影風景を見ているのか、その様子が面白い。

目録番号:3975 渡し舟(4)
〔画像解説〕
九人の男性を乗せた渡し舟が川岸を離れようとしている。船には人力車も乗せられている。渡し場には材木や、荷駄を積んだ二頭の馬、大勢の人の姿が見える。背後には四、五軒の藁葺き屋根の家が建っている。

■ 確認結果

「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の45頁にある「50 渡し舟」は、撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:3975「渡し舟(4)」とも、これは東京の多摩川下流「川崎・六郷の渡し」であろう。

歌川広重 保永堂版より「川崎・六郷の渡し」は、”web浮世絵”から。北斎・広重の浮世絵と東海道の古写真ーその3 に、「1860年代「川崎六郷の渡し」ベアト?撮影」の写真(目録番号:3975「渡し舟(4)」と同じ)が掲載されていて、「川崎・六郷の渡し」とわかった。
撮影者は、F.ベアト?、スチルフリード?
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2617

世界文化社「写真で見る 幕末・明治」1990年発行の54頁「渡し舟」の解説も、次のとおり。
渡し舟
六郷の渡しは、浮世絵の好題材とされるように、江戸時代より「絵になる場所」であった。明治6(1873)年、渡しに沿って架設される鉄道橋は見えないが、岸を離れる舟に乗る人力車には、文明開化の始まる時代の進路が見える。

長崎外の古写真考 モース百年前の日本 158 大和型の荷船 大阪

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長崎外の幕末・明治期古写真考 モース百年前の日本 158 大和型の荷船 大阪

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

モース・コレクション/写真集 百年前の日本
115頁  158 大和型の荷船 ca.1890 大阪
〔画像解説〕
写真から見ると、船尾の帆装を一部はずしているのではないかと思われる。もし写真どおりの帆装ならば明治20年以前ということになる。ただ、これらの船は川筋である期間停泊するため、帆装の一部をはずしている可能性もある。それならば明治30年代ということになる。手前3隻はやや大型で500石を越えていると思われる。

目録番号:1202 和船(2)
〔画像解説〕
港に停泊している5艘の和船であるが、皆同型のようである。整理番号6-27「和船(1)」は帆を上げているが、同じ型である。これらの船は江戸中期から明治半ばまで活躍した北前船である。

■ 確認結果

モース・コレクション/写真集「百年前の日本」小学館発行1988年初版第9刷の115頁にある「158 大和型の荷船」は、撮影場所を「大阪」と説明している。
データベースの目録番号:1202「和船(12)」とも、これは東京の佃島前の風景である。
石黒敬章編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊の261頁に、次のとおり解説している。

【大川に停泊中の荷船】Ⅱ12−10
同じ写真を大阪としている写真集があり惑わされたが、これは東京である。Ⅱ12−06と背景の家並みが同じであるし、帆柱の間に住吉神社の屋根も垣間見えるから、バックは佃島である。
一見したところ石川島灯台がないように思えるが、手前の弁財船の船尾の上部に、チラリと小さく見える屋根が灯台らしい。随分低い灯台だった。Ⅱ12−07の右に見える白い倉庫が、灯台より少し右手にあるから位置関係は合っている。〔Y〕

この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2663

長崎の古写真考 モース百年前の日本 157 大和型の荷船

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長崎の幕末・明治期古写真考 モース百年前の日本 157 大和型の荷船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

モース・コレクション/写真集 百年前の日本
114頁  157 大和型の荷船 ca.1900
〔画像解説〕
あまり大型でなく、500石以下かと思われる。喫水線が深いが、積荷が見えないので比重が重い荷を積んでいるのだろうか。明治後期の撮影であろう。撮影場所は不明であるが、瀬戸内海かと思われる。

目録番号:1818 和船(4)
〔画像解説〕
四角の帆一枚で走る和船。これは主として関西以西で使われたいさば船とおもわれる。運搬用に使用された。わりに大きな船。撮影場所は不明。

目録番号:4533 和船(10)

目録番号:6762 和船(13)

■ 確認結果

モース・コレクション/写真集「百年前の日本」小学館発行1988年初版第9刷の114頁にある「157 大和型の荷船」は、撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:1818「和船(4)」ほかとも、これは長崎を撮影している。

ブライアン・バークガフニさんのサイトだろう。「長崎古えはがき」の長崎港の中に「(長崎名所) 海岸の景 View of Bund at Nagasaki」の絵葉書が掲載されている。
目録番号:1818「和船(4)」を反転した写真に間違いない。船頭と背景の海岸建物を比較。船は少し移動している。長崎港の具体的な場所は不明。郊外の茂木も考えられる。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2843

長崎の古写真考 モース百年前の日本 155 和船

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長崎の幕末・明治期古写真考 モース百年前の日本 155 和船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

モース・コレクション/写真集 百年前の日本
113頁  155 和船 ca.1890
〔画像解説〕
大和型の500石以下の中型荷船。近距離用で、おそらく瀬戸内海航路が主であったと思われる。錨はほとんど使用されなかった中国型のようであり、そうだとすれば大変珍しい。

目録番号:5713 和船(12)

■ 確認結果

モース・コレクション/写真集「百年前の日本」小学館発行1988年初版第9刷の113頁にある「155 和船」は、撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:5713「和船(12)」とも、これは長崎の戸町海岸を撮影している。沖に写る島は、長崎港口の「高鉾島」である。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1548

横綱丸山権太左衛門の墓  長崎市本河内郷墓地内

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横綱丸山権太左衛門の墓  長崎市本河内1丁目

長崎市本河内1丁目の本河内郷墓地内に、横綱「丸山権太左衛門の墓」がある。
陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。現在公認されている横綱では3代目に数えられるが、順序が逆で「2代目」とする説もある。1749年の長崎巡業時にの際に現役のまま没した。死因は赤痢と言われている。37歳没。(ウィキペディア)
詳しくは、HP「相撲の歴史ナビ」丸山権太左衛門を参照。
http://sports.geocities.jp/sumou_caffe/maruyamagontazaemon.htm

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」66頁の説明は次のとおり。

99 故名力士之碑(所在地:本河内町40番地付近)

旧長崎街道沿のこの付近には3代横綱丸山権太左衛門をはじめ玉井茂三次、一二三孫兵衛、雲早山森之助、峰松庄之助などの墓碑が散在していたが、現在、この地に集められている。同碑は昭和3年(1928)に池田國太郎等本河内の有志によって建立されたが、「故名力士之碑」は春日野部屋を興した横綱栃木山守也が揮毫した。

次は長崎県立図書館郷土資料で、偶然見つけた「東洋日の出新聞」大正13年3月4日記事。珍しいから紹介する。

本河内に初代横綱丸山の墓 東京相撲で誰も詣った者は無い

長崎市本河内一ノ瀬蛍茶屋の上に旧街道の坂を左に登る事二丁余りすると路傍に丸山権太左衛門の墓がある事は余り識る人はない。横綱の初代は明石志賀の助とも云うが、此の人の事は小説以外には何もないそうであるが丸山横綱の事は諸書にある。

丸山が長崎で死んだのは、元文2年10月9日とある。爾来横綱も10数代出来て居る角力道も明治大正に至りて盛大を極めて居るが、丸山が死んだ200余年角道の流を汲む力士連が長崎に来たのは数限りないのに1人として草花1本捧げたものはあるまいと云う事である。蛍茶屋の主人に聞いて見ると『ハイありますが誠に荒れ果てたものです』と云って居る。

丸山は奥州仙台の産で享保の17年に力士になった。身の丈6尺3寸体量が43貫掌の長さ7寸9分あった頭上にコブがあったので丸山と名づけたとある。角力は下手だが力が強く立合には両手で叩ハネ飛ばす計りで誰1人之を防ぐものがなかったと云ふ。寛延2年8月に横綱を許されたが一度も使はぬ内に46歳で死んだと云ふ事である。大阪で懸桶の竹を捻ぢ折るのを主人が記念に夫れで花筒を造って丸山筒と名付けて家宝として伝えたとの事である。

仙台は昔から大男を出すが今長崎に来て居る近き内に横綱となる出羽ヶ嶽も仙台の産と云ふ。先の大砲も夫れである。中の島の角力も本日は休みだから栃木山、常の花両横綱始め力士連が墓詣をする様な談もある(神水生投)

長崎の古写真考 目録番号:3554 長崎の民家と温室 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3554 長崎の民家と温室 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3554 長崎の民家と温室

目録番号:3555 温室と男性たち(1)
〔画像解説〕
農業試験所あるいは薬草園の温室か。ペンキで塗った木造でガラス張りの真新しい建物である。男たち二人はここの研究員もしくは管理者であろうか。休日らしい出で立ちに見うけられる。

目録番号:3565 温室と男性たち(2)
〔画像解説〕
農業試験所あるいは薬草園の温室か。ペンキで塗った木造でガラス張りの真新しい建物である。男たち二人はここの研究員もしくは管理者であろうか。休日らしい出で立ちに見うけられる。

目録番号:3566 長崎の民家と男性たち
〔画像解説〕
田圃のある郊外の大きな民家の前に二人の男性が映っている。長いレンガ塀、入母屋造りの大屋根、ガラス窓など新しい造りの家屋。すでに電信柱が縦横に見えており、大正時代の撮影か。

■ 確認結果

目録番号:3554「長崎の民家と温室」など4作品は、一連作品で、ほぼ同じところを同じ時期に撮影されたと思われる。
考えられるのは、現在の長崎市中川町(新中川町?)に、明治31年(1898)開設された最初の長崎県農事試験場の風景である。

長崎年表HPの記事は、次のとおり。
▼1893(明治26)【明治】 癸巳(みずのとみ)
04/01★長崎電灯株式会社が開業。長崎市内に初めて電燈がつく
68戸に供給、取付け灯数129灯、うちアーク灯9灯
04/ ★長崎電灯会社の開設により長崎公園園内の照明が石油ランプから電燈に切り替えられる
▼1898(明治31)【明治】 戊戌(つちのえいぬ)
★長崎市中川町に農事試験場開設。長崎ハクサイの早生・晩生の2系統を選抜

長崎県総合農林試験場の沿革は、次のとおり。
明治31年 4月 長崎市中川町(現在)に農事試験場を創設. 大正 9年 8月 諌早市永昌町(現在)に移転。

長崎おもしろ草第5巻「越中哲也の長崎ひとりあるき」12頁は、次のとおり。
…明治になって、この敷地(注 桜馬場の旧長崎村庄屋職森田屋敷。現在の桜馬場中学校の地)は榎津町の質商赤瀬氏の所有となり更に長崎県の所有となった。
県は最初、ここに農事試験場を設けたが、のち、この試験場を現在の蛍茶屋の電車終点の右手に移し、明治22年、この地に県立師範学校を立山から移転し、その付属小学校も同24年より併せて開校した。…

これらの資料から推定できるのは、明治31年(1898)4月、最初に創設された「長崎県農事試験場」が、現在の長崎市中川町(新中川町?)にあった。電灯もすでについていたのである。

目録番号:3554「長崎の民家と温室」の背景となる景色を探すと、新中川町電停近く中島川に沿った「丸川公園」あたりから同じ地形が望まれる。
左側の小高い丘には、現在、長崎市立伊良林小学校グランド上に、瓊浦高等学校の校舎が建つ。中央右に遠く覗く山は、そこから続いた奥の風頭山頂の岩と思われる。
「伊良林尋常小学校」の開校は、明治35年(1902)8月17日である。

明治34年測図国土地理院旧版地図によると、広い土地で市中から里道が外周を通る。このあたり一帯が農事試験場の敷地だったと思われる。
現在の中之橋近くにあった建物と温室を、中島川対岸の少し高い位置から撮影したのではないだろうか。

長崎の古写真考 目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)
〔画像解説〕   超高精細画像
長崎を代表する山、彦山(右側)・豊前坊(左側)を画面中央後ろに、左岸人家の手前のところに江戸時代の上水道として使用された倉田水樋の水源、常夜灯下側には日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂(中島聖堂)、写真には見えないが、常夜灯左下側には、日本三大聖堂の一ついわれた長崎聖堂(中島聖堂)、常夜灯左上が上野彦馬邸(上野撮影局)に当たる。明治中期の銭屋川(中島川)の風景である。残念なことに、常夜灯は昭和57年(1982)の長崎大水害で流失してしまった。近くにある若宮神社の秋の大祭に奉納される「竹ン芸」は、境内に高さ10mの2本の青竹を立て、これに穴を開け横木を通し、狐の面を被った雄狐と雌狐に扮した二人の青年が竹によじ登り「つり下がり、大の字、さか立ち、逆さ降り」等の曲芸を「ローレンヒューヒューライローレン」の竹ン芸囃子にのって演じるものである。現在、長崎市の無形民俗文化財に指定されている。また、若宮神社は「古いお宮を若宮」と唄われ、長崎七不思議数え唄の一つに数えられている。

■ 確認結果

目録番号:3802「中島川と上野彦馬邸(5)」は、現在「紅葉橋」となっている場所に架かっていた、当時、地元では「杉山橋」と呼ばれた木橋であろう。川上に向って右の岸側に明治の企業家杉山徳三郎氏の邸宅があり、同氏が私費で架設した。
長崎大学データベースの超高精細画像解説は、ポイントが外れ過ぎではないだろうか。

この作品は、古写真研究の東京在住、前慶応大学教授高橋先生が注目している。
「私は明治25年に長崎に開業した為政写真館の撮影と睨んでいます。アルバムに為政の印があるからです。大文字のAに写真番号とタイトルをアルファベットの大文字で入れた写真が特徴で、横浜の金丸写真館と提携して長崎の風景写真をシリーズで出していました。金丸写真館の写真と番号が連続的に繋がります」

「73のシリーズがいつ頃撮影されたものかを知る手掛かりとして、紅葉橋の架橋時期が非常に重要だと思います。よろしく」との依頼により、架橋年代など調査した。
明治27年「長崎港新図」にこの場所に橋が初めて表われる。長崎市の近代水道共用栓が敷設されたのは、明治24年6月であるが、為政写真館の長崎開業は、神戸とほぼ同時期の明治
25年だから、シリーズはそれ以降の年代の撮影と推定される。

「杉山橋」の正確な架橋年代は、田上2丁目「徳三寺」へ尋ね、長崎歴史文化博物館郷土資料として、古賀十二郎文庫「長崎橋梁台帳」に記録があることがわかった。
台帳の写しは写真のとおり。「明治24年2月落成 杉山徳三郎私設ニシテ木造」と判明した。橋名はなかった。

さらなる疑問は、橋名が「紅葉橋」となった事情。「ナガジン」越中先生の話では、「この上野彦馬宅跡の向いの橋、「紅葉橋(もみじばし)」は、彦馬と恋仲だった紅葉さんという人の名前がつけられているんですよ」とある。
高橋先生は上野彦馬研究のため、この点も注目している。現在の橋を管理する長崎市へ問い合せてもわからず、越中先生へ直接、文献を確かめてもらうほかはないだろう。