長崎外の古写真考 写真の幕あけ 52 吊り橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 写真の幕あけ 52 吊り橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

日本写真全集 1 写真の幕あけ
46頁  52 吊り橋  撮影者不詳 明治中期 鶏卵紙に着色 四切
〔画像解説〕
天秤棒をかついだり、笠をかぶった人物たちを配置することで、写真に時代のリアリティをもたせている。右下の白ヌキ番号は写真とネガの照合をたやすくする整理番号と思われる。

目録番号:4283 富士川に架かる吊橋釜口橋(3)
〔画像解説〕
芝川町長貫(ながぬき)と瀬戸島(せとじま)の間の富士川の難所釜口峡(かまぐちきょう)に架かる吊り橋を南から撮影したもの。富士川は激流のため、架橋が難しく江戸時代にはここが富士川に架かる唯一の橋であった。両岸が切り立った崖で、川幅が最も狭い場所である。板を並べ藤蔓で縛ったスノコのような橋の上に5・6人が乗る。蔓だけの吊り橋も架かっている。

■ 確認結果

「日本写真全集 1 写真の幕あけ」小学館昭和60年発行の46頁にある「52 吊り橋」は、撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:4283「富士川に架かる吊橋釜口橋(3)」のとおり、富士川の難所釜口峡(かまぐちきょう)に架かっていた吊り橋「釜口橋」であろう。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2591

釜口橋 (富士川)   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

静岡県富士宮市にある橋。富士川に架かる橋としては一番短い橋である。

眼下に富士川水運最大の難所と呼ばれていた釜口峡があり、対岸と渡し船で渡るのが非常に困難な場所であった。一方で川幅が他の地点と比べて非常に狭かったことから古くから川の東側と中間点にある瀬戸島の間に吊り橋などで架橋が行われていた。しかし架けられた吊り橋は非常に不安定であり、その厳しさは富岳紀行や歌川広重 『富士川上流雪中の図』、長崎大学付属図書館に所蔵している絵画でも伺うことが出来る。

1608年(慶長13年)に徳川家康が富士山本宮浅間大社を参拝する際釜口橋を渡っているが、この際は板橋を架設し渡河している。吊り橋はたびたび落橋しているが、瀬戸島の西の対岸の間も銚子の口と呼ばれる難所であり、瀬戸島の住人にとって生活に必要な橋であることからすぐに再架設されていた。

明治時代になると針金で結んだものになったが、1918年(大正7年)に歩兵第60連隊が橋を渡ろうとしたところ落橋し、7人の死者を出すなどその厳しさは相変わらずであった。1951年(昭和26年)に現在のトラス橋に架け替えられ、ようやく安心して渡ることが出来るようになっている。