長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎を代表する山、彦山(右側)・豊前坊(左側)を画面中央後ろに、左岸人家の手前のところに江戸時代の上水道として使用された倉田水樋の水源、常夜灯下側には日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂(中島聖堂)、写真には見えないが、常夜灯左下側には、日本三大聖堂の一ついわれた長崎聖堂(中島聖堂)、常夜灯左上が上野彦馬邸(上野撮影局)に当たる。明治中期の銭屋川(中島川)の風景である。残念なことに、常夜灯は昭和57年(1982)の長崎大水害で流失してしまった。近くにある若宮神社の秋の大祭に奉納される「竹ン芸」は、境内に高さ10mの2本の青竹を立て、これに穴を開け横木を通し、狐の面を被った雄狐と雌狐に扮した二人の青年が竹によじ登り「つり下がり、大の字、さか立ち、逆さ降り」等の曲芸を「ローレンヒューヒューライローレン」の竹ン芸囃子にのって演じるものである。現在、長崎市の無形民俗文化財に指定されている。また、若宮神社は「古いお宮を若宮」と唄われ、長崎七不思議数え唄の一つに数えられている。
■ 確認結果
目録番号:3802「中島川と上野彦馬邸(5)」は、現在「紅葉橋」となっている場所に架かっていた、当時、地元では「杉山橋」と呼ばれた木橋であろう。川上に向って右の岸側に明治の企業家杉山徳三郎氏の邸宅があり、同氏が私費で架設した。
長崎大学データベースの超高精細画像解説は、ポイントが外れ過ぎではないだろうか。
この作品は、古写真研究の東京在住、前慶応大学教授高橋先生が注目している。
「私は明治25年に長崎に開業した為政写真館の撮影と睨んでいます。アルバムに為政の印があるからです。大文字のAに写真番号とタイトルをアルファベットの大文字で入れた写真が特徴で、横浜の金丸写真館と提携して長崎の風景写真をシリーズで出していました。金丸写真館の写真と番号が連続的に繋がります」
「73のシリーズがいつ頃撮影されたものかを知る手掛かりとして、紅葉橋の架橋時期が非常に重要だと思います。よろしく」との依頼により、架橋年代など調査した。
明治27年「長崎港新図」にこの場所に橋が初めて表われる。長崎市の近代水道共用栓が敷設されたのは、明治24年6月であるが、為政写真館の長崎開業は、神戸とほぼ同時期の明治
25年だから、シリーズはそれ以降の年代の撮影と推定される。
「杉山橋」の正確な架橋年代は、田上2丁目「徳三寺」へ尋ね、長崎歴史文化博物館郷土資料として、古賀十二郎文庫「長崎橋梁台帳」に記録があることがわかった。
台帳の写しは写真のとおり。「明治24年2月落成 杉山徳三郎私設ニシテ木造」と判明した。橋名はなかった。
さらなる疑問は、橋名が「紅葉橋」となった事情。「ナガジン」越中先生の話では、「この上野彦馬宅跡の向いの橋、「紅葉橋(もみじばし)」は、彦馬と恋仲だった紅葉さんという人の名前がつけられているんですよ」とある。
高橋先生は上野彦馬研究のため、この点も注目している。現在の橋を管理する長崎市へ問い合せてもわからず、越中先生へ直接、文献を確かめてもらうほかはないだろう。