明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (3)  長崎市田中町

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明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (3)  長崎市田中町

明治33年9月などに建てられた矢上村にあった街道(国道・県道)標石が2つ現存していることは、次により紹介している。
矢上町  https://misakimichi.com/archives/470
東 町  https://misakimichi.com/archives/1444
ところが、矢上村の標石があと1本あった。最近、諌早市郷土館の織田先生の話から、田中町中尾にも残っていると教えてもらった。
明治期の標石だが、今のうちに記録しておく必要がある。先生もその意向である。

標石は現在、中尾公民館すぐ上の浦山正勝氏が保管されておられる。12月26日同宅を訪れ、見せてもらった。上部が折れ、いささか無残な姿である。
刻面は次のとおり。寸法は15cm角、高さ73cm。
正 面  →西 山
裏 面  ←本河内
左側面  矢上村中尾
右側面  明治三十四年八月建

矢上村の明治34年測図国土地理院旧版地図を末尾に掲げたので、所在場所は地図により確認。刻面から見ると、現在の中尾ダム堰堤近くの川沿いの分岐に、最初はあったと考えられる。
あるいは大正6年、上流の「鮎帰橋」がアーチ式石橋となったので、その分岐に移された可能性はある。「鮎帰橋」は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/295
「→西 山」とは、田の川内を通る現在の九州自然歩道の道で、木場峠を越えて西山ダムへ出る旧道である。
「←本河内」とは、中尾から平床を通り木場峠へ出る現在の市道は当時はなく、中尾から中尾峠を越えて、本河内の日見トンネル西口へ出る旧道と思われる。

中尾ダムは、長崎水害緊急ダム事業として平成12年度完成。ダム底となる標石は、一時、中尾ダムに新しく架かった吊り橋「中尾大橋」脇の石祠のある道脇に移された。
ところが数年前、車がぶつけたか無残に折れて、放置されていた。標石がこれ以上破損しないよう、浦山氏が見かねて同宅の庭に運び、標石を保管されている。織田先生に報告しておいたそうである。