井手正兵衛の碑  西海市西海町七釜郷字半助山より下る

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井手正兵衛の碑  西海市西海町七釜郷字半助山より下る

”字半助山の南側斜面にある水田の先端より100mの所に水路があり、沢と水路が交差した場所に、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と自然石(蛇紋岩)に刻まれた碑がある。約4kmに及ぶ七釜の大井手て呼ばれる水路を作った井手正兵衛の記念碑である。
当時、七釜の住居地には水源がなかった。井手正兵衛は、柚木川より水路を作り、水田への取水、また郷民の飲料水確保を目的として、水路を作った。現在もこの水路のことを、井手氏の名前を称え、「井手」と呼ぶ。最近まで、水路の補修のため、一軒から一人作業に出ることを「井手轟」と言った。”

以上は、西海町「西海町郷土誌」平成17年発行の記念碑、宝塔一覧751頁にある碑の写真付き記録である。同郷土誌の農林業457頁にコラムで、次のとおり詳しい記事があった。

七ツ釜の大井手

県道遠見岳線を登り、字半助山に至る。半助山の南側斜面に、広い水田(913−2)がある。その水田の先端より沢伝いに約100m下ると水路があり、沢と水路が交差した所に「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)がある。
水路を上流へ約500mさかのぼり、柚木川上流と交わるところが、水路基点である。この基点より水路を等高線ぞいに辿れば、字半助山・ワルカリ・横尾・大迫・平山・石原・立石・山田と経て落保へと至る。大迫の水計(みずはかり)から分岐して伊立浦川の水源となり、岩谷川・山田の奥・伊立浦の水田を潤している。山田から分岐し、大川の川(うーこうの川)の水源となり、山田・大川新田を潤している。

さらに余水は住民の飲料水として最近まで使用されていた。七ツ釜の住居街には現在もほとんど水源が見当たらない。井手正兵衛は、主に飲料水確保のため水路を計画したように思われる。
水路の長さは約4km。幅は上流が約1m。下流に行くにつれて狭くなる。高さはまちまちである。現在、この水路を、井手氏を讃え、「井手」と呼ぶ。最近まで、一軒につき一人が水路の補修に参加することを「井手轟」と呼んだ。

さて、「大井手」を築いた地元の偉大な先賢者、井手正兵衛のこの碑はどこにあるのだろう。地元や市教育委員会に聞いても、現在は場所をほとんど知る人がいない。郷土誌編纂委員の方を、今さら煩わす訳にはいかず、山奥を1人で探してみることとした。
「半助山」自体がわからず、市管財課で「七釜郷913−1」の地籍図を取った。航空写真で交付されびっくりした。これから見当付けると、半助山の水田(黄線枠)は、県道122号線と広域基幹林道西彼杵半島線が交差する右方谷間にある。地形図に水田記号がある所である。

広域林道の七釜トンネル上の先に県道122号線から分岐して、右へ入る林道(九州自然歩道と白岳集落へ出る)がある。高圧線鉄塔37、33号へ行く標識がある。この上の山が「半助山」だろう。山腹を1kmほど進むと右谷間へ下るコンクリート舗装の分岐道があった。水田専用車道で、目指す水田へとすぐ降りた。
後は郷土誌の記すとおり、水田の先端より沢伝いに約100m下ると、廃用となった水路跡があり、沢と水路が交差した所を探したのだが、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)を見つけきれない。

沢の石の状況が変わっているのだろう。この倒れている石がそうだとすると、水流で磨耗している。碑があった場所は間違いないと思う。ここよりさらに50mほど沢を下ると、水量の多い柚木川本流と出合った。
時間をかけて再調査が必要だ。結果がわかり、碑の現在の写真を写せたら、後日報告する。
最後の写真は、九州自然歩道沿いで白岳集落近く、柚木川上流にある滝。