鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (1)

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鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

ほしなべ氏HP”長崎遠めがね”の2009年6月26日記事「鍋冠山の測点」は、興味深いからまず参照。 http://hoshinabe.ojaru.jp/276_nabesoku/276.html
鍋冠山の三角点近くの芝生の中に、一辺が16cmほどの石があり、長崎市史 地誌・名勝編 1938年刊 1967年再刊 p310 には、「明治12年に内務省地理局測量課が 経緯度測量に従事したのはこの(鍋冠山)山上である。今其の遺跡には高さ3尺余りの石柱の一部がある」と書かれているので もしかすると その石柱の「なごり」かもしれませんと、写真付きで紹介している。

ほしなべ氏が資料としている「天文月報」や「長崎市史」の記録は、京都市に住み近代測量史を研究されている上西先生のサイト”史跡と標石で辿る「日本の測量史」 旧題:三角点の探訪”長崎県の三角点 鍋冠山(下記のとおり)から引用したものと思われる。
http://uenishi.on.coocan.jp/10lib-sankaku/p420nagasaki.html

私は、3年前の”長崎遠めがね”鍋冠山記事を見落としていた。上西先生から先日、「つぎのHPで鍋冠山の遺跡に関する記事を見つけました。まだ現地になにかあるようですね」と、メールをいただいた。
上西先生とは、5年来、懇意にしてもらっている。2006年2月に来崎され、私が天門峰や魚見岳の「地理局測点」など案内し、鍋冠山の標石も先生と探した。写真の場所は先生も見てる。
鍋冠山のこの時の調査状況は、文字数の制限から次記事(2)とする。研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。

さて、ほしなべ氏の記事の石だが、きょう宮さんと鍋冠山山頂へ確認に行った。掘り始めるとすぐ動き、石柱ではない。ほしなべ氏には悪いが、単なる平らな石だった。
鍋冠山へは、2006年2月以後、私は数回通い、山中をだいぶん探した。標石の痕跡は見つけきれなかった。もともと山頂部は柱状節理を成している。石柱に似たような石片が多いが、自然のものばかり。その後、調査はあきらめていた。
きょうの調査も上西先生へは、残念な報告をしなければならない。何かわからない新しいコンクリート石柱は西斜面に1本あった。

鍋 冠 山 (169.3米 四等 2006/2/22)
点名:戸町
地図:長崎西南部

長崎市大浦天主堂の500メートル南にある丘で全体が公園になっています。長崎の街と長崎港を望める展望台があります。三角点標石の北面には「009 864」の刻字がありました。

1879年(明治12)から翌年にかけ内務省地理局が、この鍋冠山と東京赤坂葵町にあった天文台との経度差を測定しています。しかし現在、その遺跡はなにも残っていませんが公式記録はあります。[内務省地理局測量課:日本全國三角測量報告 天文之部 第貳 明治十四年 長崎、大阪、京都 1881(気象庁蔵)]

其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ツに折れて横つてあった。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象觀測指點」とあり、兩側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあった。 [田代庄三郎:長崎に於ける經度電信測量の測點 天文月報 九巻一號 大正五年四月 日本天文學会 1916 p5]

明治十二年 内務省地理局測量課が經緯度測量に從事したのは此の山上である。今其の遺阯にや高サ三尺餘の石柱の一片がある[長崎市役所:長崎市史 地誌編 名勝 清文堂出版 1938(1967再刊 p310)]