時津街道の滑石にある道案内標石
1988年編纂委員会編「写真構成 長崎滑石郷郷土史誌」156〜157頁に、次のとおり時津街道の記録と滑石にある2本の標石の写真がある。
標石の刻字と寸法は次のとおり。同じ造りの標石が、時津町浦郷の茶屋(本陣)跡近くにも現存していた(平成19年12月18日追記)
平宗橋際の標石 18cm角、高さ60cm。
「+西浦上村字平宗」「明治三十三年九月」「長與→」「→長崎」
滑石入口の標石 18cm角、高さ40cm。埋設のため( )は推定
「+(西浦上村字横道)」「明治三(十三年九月)」「←長(崎)時(津)→」「三重」
時津街道巡見 (團龍美氏稿)
旧街道は、(六地蔵の)この崖から山手へ回りホンダから206号をまたいでJR長崎本線の下を潜って岩屋口へ入るが、今は勿論通れない。街道は線路左の旧道を進むのである。
岩屋口から206号西友—横道間の中途から、道の尾口の平宗橋を渡る。この橋の際に標柱があったが、今はすぐ傍の民家の入口に移されている。明治33年の建立。この道の尾通りから滑石川沿いに横道交差点に出る。交差点から滑石団地入口に入ると右手は元滑石小学校の跡地で市立滑石公民館がある。バス道から旧道へ入ると、滑石口の標柱が半分埋れて立っている。
道標には三重、時津、長崎の方向に矢印がある。道標の先は、打坂峠へ緩やかに回る旧道の左手に、大村藩横道庄屋(角の庄屋)といわれた菊池高谷家の旧家がある。今は後継の柿田本家、由緒深い屋敷である。この街道筋を「お籠立場」といい、ここで打坂峠越えの準備を整えたらしい。
打坂峠は、時津街道の難所であった。打坂交差点から右に行けば長与道、真っ直ぐ峠を越えれば時津へ至るが、峠の谷は潅木と竹林、井出園の横尾川へ下る谷は、つるべ落しの如き急坂の山道で、竹林の中には故ありげな建物跡の礎石や石垣が残っているのが興味深い。