外海出津・黒崎の藩境石と藩境塚

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外海出津・黒崎の藩境石と藩境塚

平成18年2月19日、川上君と柚の新種「ゆうこう」の木の分布調査を兼ねて訪れた。このあたりはほとんど大村領だが、佐賀領の飛地があちこち入り混じっていた。

藩境石は2つ見た。先ず西出津町の外海歴史民俗資料館前庭にあるのは、正面「従是下川側舫塚迄川中境」右面「東北大村領」左面「西南佐嘉領」裏面「自此塚川中境迄四間壹尺四寸」。24cm角、高さ1.23m。上部は四角錘である。
次にド・ロ神父記念館庭にあるのは、正面「従是南佐嘉領」裏面「川中境迄貮間貮寸」。形状は同じである。

両藩が築いた「下川側舫塚」(もやいづか)なるものを探してみたいが、出津大橋が架かる前、旧バス道が出津川を渡る地点に建っていたと思われる。資料館等の下の谷間らしいが、地元自体、この石柱をどこからいつ頃持ってきたか、もはや正確に知っている人はいなく、樫山の場合と全く同じような状況となっていた。

藤野保編「大村郷村記」第六巻(昭和57年図書刊行会)100頁、黒崎村の「当領佐嘉領大塚并傍爾石之事」の記録によれば、この銘文は「内平川」に建ってたものだが、年月は不明である。同村記は黒崎村にあと12本の藩境石を記録している。建てるのも大変だが、探すのも大変だ。

藩境塚は、新牧野町カリタス外海診療所の丘南下の尾根に残っていた。3基見られ川上君が以前の執念の踏査によって見つけており、連れて行ってもらって確認した。地元もほとんど知らないのではないか。外海こども博物館の先生も間違いなく藩境塚であると後日、確認してくれた。
他に黒崎の枯松神社墓地先や子捨崎の上尾根へ行ったが、成果はなかった。