月別アーカイブ: 2011年3月

長崎外の古写真考 目録番号:4899 大津の町並み

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4899 大津の町並み

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4899 大津の町並み
〔画像解説〕
高観音(たかかんのん 正式名:近松寺)東方から北西方向を撮影したもの。園城寺観音堂とともに、琵琶湖を望む当時のビュースポット。左手奥には、明治8年(1875)駐屯の陸軍歩兵第9連隊の兵舎が見えるが、同19年着工の琵琶湖疏水工事が未着手であり、この間に撮影されたものと考えられる。

目録番号:2250 三井寺から望む琵琶湖(9)
〔画像解説〕
西国三十三所観音霊場の第14番札所、三井寺(みいでら、正式名:園城寺)観音堂から望む大津の風景。中央の水路は飲料水・発電・物資輸送などを目的として、明治23年(1890)に完成した琵琶湖疏水(びわこそすい)。疏水周辺の様子から、完成間もない頃に撮影されたものと考えられる。

■ 確認結果

目録番号:4899「大津の町並み」は、園城寺観音堂の方が有名だが、画像解説どおり「高観音(たかかんのん 正式名:近松寺)東方から北西方向を撮影したもの」に間違いないようだ。
「同19年着工の琵琶湖疏水工事が未着手であり」とは、園城寺観音堂下からこの古写真の中央あたりに水路はできるが、まだ表れていない。
高観音 近松寺(ごんしょうじ)、園城寺(三井寺)観音堂、琵琶湖疏水の位置は、地図のとおり。

高観音 近松寺から望む大正初期や昭和初期の絵葉書、現在のアングルは、HP「高観音(近松寺)」などから。
三井寺の末寺として栄えた近松寺。近松門左衛門ゆかりの寺。本尊は智証大師の作と伝えられる千手観音菩薩。園城寺で一番高い位置に祀られている観音なので「高観音」と呼ぶ。

長崎外の古写真考 目録番号:3932 湯本の山道

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3932 湯本の山道

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3932 湯本の山道
〔画像解説〕
湯本近くの山道であるが、箱根八里の旧東海道か、鎌倉時代の湯坂道か、あるいは、他の山道か不明である。背後に山等も見えないので、特定が困難である。旧東海道であれば、石畳が見えてもよさそうだが、有るか無いかはっきりしない。既に埋もれた可能性もある。

目録番号:5700 箱根湯本の街道

■ 確認結果

目録番号:3932「湯本の山道」は、次の目録番号:5700「箱根湯本の街道」の作品もある。ベアトかスチルフリードが歩いた道。一般的に「箱根八里の旧東海道」と考えられる。写りがはっきりしないが、石畳の道のようにも見える。

湯坂道は、鎌倉幕府のあった時代から、江戸時代に箱根旧街道が出来るまで、箱根越えの主ルートだったが、標高700m以上を登る。あまり考えられない。
現在の写真は、HP「東海道歩き旅」箱根湯本〜箱根から。

長崎外の古写真考 目録番号: 807 乞 食

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 807 乞 食

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 807 乞 食
〔画像解説〕
“The Far East “”明治4年11月5日号163ページ掲載。湯本でであった乞食。横浜で船頭をしていたが、事故で片目を失い、他にも怪我をして生活の資を稼げなくなったと解説している。”

■ 確認結果

目録番号: 807「乞食」は、箱根の「湯本でであった乞食」なら、〔撮影地域:箱根〕となるだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1020 皇居内濠(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1020 皇居内濠(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1020 皇居内濠(1)
〔画像解説〕
水鳥が泳ぐ壕の対岸、左手に一棟(書院?)、右手に一棟(茶室?)建物が見える。背景には背の高い木立が見える。撮影場所の詳細は不明。

■ 確認結果

目録番号:1020 皇居内濠(1)は、HP「森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1)」古写真で読み解く広重の江戸名所 に同じ写真が掲載され、撮影場所を次のとおり説明している。

75.名所江戸百景 赤坂桐畑 

溜池といえば、現在は地名として残っているばかりだが、明治初年までは、赤坂御門外より山王の宮の麓を東南にめぐり、虎の御門近くまで伸びる大きい池であった。江戸名所図会はこの池について、「昔、神田、玉川の両上水、いまだ江城の御もとへ引かせたまはざりしその以前は、この池水を上水に用いられしとなり」とも記している。
この溜池の南側、日吉山王権現の対岸なる松平美濃守の中屋敷前辺りを俗に桐畑といった。…

名所江戸百景赤坂桐畑
名品揃物浮世絵10広重I〔江戸名所物〕(ぎょうせい)

明治初年の溜池のほとり
目で見る千代田の歴史(千代田区教育委員会)

さて、写真は明治初期の溜池である。この写真は、数少ない溜池の写真で、矢田挿雲の「江戸から東京へ」にも掲載されている。もともとこの写真は1872年5月16日号の「The Far East」紙に貼られたもので、「View on the Moat, Yedo」というキャプションがついている。そのためか、江戸城内の写真とする向きもあるが、これは紛れもなく溜池の写真である。「The Far East」紙にはこの写真の説明があるので、参考までに拙訳を記しておきたい。

「これは江戸城のお堀で、赤坂御門はこのすぐ近くである。日本では、この時節になると、木立の繁みは、その色も姿も、世界の他の国では見られないほど変化に富む。この写真の背景にあるような美しい水際の緑は実は国中何処へいってもお目にかかることができるのである。竹の葉は軽く、また柔らかく、椿や松の木が濃やかな陰をつくっている。そしてその間に叢生する潅木の種類も豊富で、それが、見る者の目を楽しませてくれるばかりでなく、気分も一新させてくれる。江戸にはこのような美しい自然を見られる場所がざっと数えただけでも二十ヶ所ぐらいはあろうか」

外国人が幕末の江戸の美しさ、緑の多さを賞賛した話は多い。この「The Far East」紙の記事もその一つであろう。さて、広重の絵との関連で見ると、この写真に桐の木が写っていないのは致し方ないとしても、もう少し広角で撮られていて、周囲の景色が写っていれば申し分なかったのだが。それにしても、この写真は広重の絵の一部を切り取ったような趣である。池辺に写っているのは、山王権現の僧坊で、社僧には園成院・成就院・玉蔵院・長命院・福聚院・智光院・宝泉院・無量院・智乗院・常明院の十坊があった。
実はもう一枚、溜池の写真がある。回を改めて採り上げたい。

長崎外の古写真考 目録番号:4702 渡し舟(6)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4702 渡し舟(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4702 渡し舟(6)
〔画像解説〕
琵琶島弁天の護岸を利用した舟着場。平潟湾を野島まで渡す舟であろう。乗船客の多くは房総方面からの大山参詣などの旅人と考えられる。琵琶島弁天は今も、金沢シーサイドラインの終着駅、金沢八景駅の近くに、写真に写っている白い幹の柏槙の木ともども現存する。

■ 確認結果

目録番号:4702「渡し舟(6)」は、横浜開港資料館HPの「3.F.ベアト幕末関係画像集」に、 金沢の渡し船〔彩色写真〕 幕末期 【所蔵】横浜開港資料館蔵 とあり、〔撮影者:F.ベアト〕となる。

長崎外の古写真考 目録番号: 608 寺の御堂(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 608 寺の御堂(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 608 寺の御堂(1)
〔画像解説〕
神仏分離によって解体された、鶴岡八幡宮の輪蔵か。輪蔵は神楽殿左にあり、経文が納められていた。すでに解体作業に入ったものか、木材が積まれている。

■ 確認結果

目録番号: 608「寺の御堂(1)」は、HP ”がらくた置場 by s_minaga”の「相模鶴岡八幡宮寺大塔」に、同じ写真を取り上げ、次のとおり説明している。
次の元治元年撮影か明治3年撮影かは不明のベアト撮影、横浜開港資料館蔵の写真を見ても、解体された「鶴岡八幡宮経蔵」と考えられる。

○明治3年5月直前経蔵写真:撮影時期・撮影者不明
鶴岡八幡宮経蔵(推定):下掲載の経蔵:(ベアト撮影)と比較しても、八幡宮経蔵であることは確実と思われる。
前面には木材らしきものが積まれている。経蔵もしくは前にあった護摩堂などの解体に入ったものとも思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

■ 確認結果

目録番号:6327「小石川薬園でのボードインの送別会」は、慶應義塾大学 高橋信一教授HP「教育の原点を考える」2008年12月の記事 ”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”が、この作品を次のとおり取り上げている。
撮影者は、「内田九一」ではないだろうか。

No.268
268 A.F.ボードイン医師の小石川園送別会
上野の寛永寺境内で明治3年8月撮影となっているが、明治政府がA.F.ボードインに3000両の慰労金を贈ったのは明治3年閏10月28日(1870年12月20日)(「太政官日誌」第1卷)(33)である。A.F.ボードインは1870年9月から11月にかけて大学東校で教鞭を取った後、オランダに帰国する。この写真は帰国直前の閏10月30日(西暦1870年12月22日)の送別会で内田九一によって撮影された。この時点で、A.J.ボードインは休暇を取って帰国していたので、彼が関係する写真ではない。大型のB3アルバムはA.F.ボードインのアルバムと推測される。

長崎外の古写真考 目録番号:なし 「view on the tokaido」

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:なし 「view on the tokaido」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:なし 「view on the tokaido」 ベアト撮影

目録番号:5044 箱根街道(3)
〔画像解説〕
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信柱が見え、明治6年(1873)の東京・長崎間の電信敷設後のものと分る。

■ 確認結果

ベアト撮影の「view on the tokaido」。長崎大学のデータベースには見当たらない作品。HP「ドゥーワンコレクション自由日記2」歴史 のカテゴリで、珍しい次の記事を見つけた。3枚の写真も同HPから。

HPには具体的な撮影場所を記していないが、カテゴリの次記事に、「古老が語る箱根山崎の歴史」という本は、私の地元の郷土資料ですとあり、神奈川県足柄下郡箱根町湯本山崎の風景と思われる。

古写真の撮影地をさがしてみました。 2009年 06月 27日

写真は幕末期に日本に伝来しました。同時期にヨーロッパの写真家が日本に来てタイクンとサムライの時代の日本をたくさん撮影して今も奇麗な状態で現存しているものが多いです。
その中でフィリックス・ベアドという写真家がいます。時々TVなどにも出てくる写真「エジプトのスフィンクスの前に並ぶサムライ」を撮ったのもこの人です。かなり冒険好きだったようです。

ベアドは東海道を歩きその途中の景色を撮影しました。半分以上は場所が特定されていない写真だと思います。その中の一枚に私はどうしても気になるものがありました。
それがこれです。「view on the tokaido」と題されている、江戸時代の東海道。背景の山並みと道の形状がどこかで見たことがある。そんな気がしました。
「これは自分の家の前じゃないのか?...まさか」 思い当たるところから同じ方向に写真をデジカメで撮ってみました。ビビっと きたのはこの場所です。

家並み、松並木はまるで違います。しかし、ここは昔のままの東海道の旧道で、道の形はほとんど変わっていないはずです。ついでに写真を重ねてみました。するとすばらしく道が一致しました。
やったー歴史的大発見です。カメラを見つめる農民らしき人は私のひーひーおじいさんかもしれません。かってに想像がふくらみます。

ちなみにベアドはベネチア人ということですが日本がえらく気に入ったらしく在住したらしいです。当時の日本、危険でもあったと思いますがそれ以上に楽しかったのでしょうね。
またベアドはその後故郷の探検隊がアフリカを探検するということになり、冒険好き魂が復活して写真をとるために日本からアフリカに旅立ったそうです。

なお、長崎大学のデータベースには、似たような作品として、目録番号:5044「箱根街道(3)」がある。「現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である」解説している。ベアト撮影の写真と場所は少し違うようだが、背景の山などは同じように思われる。

長崎の西空の夕日  11−02

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長崎の西空の夕日  11−02

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成23年 2月22日の18時14分頃
写真  4〜 6  平成23年 2月23日の18時 1分頃
写真  7〜 9  平成23年 3月10日の18時20分頃  
写真 10〜12  平成23年 3月17日の18時30分頃

長崎外の古写真考 目録番号:4337 大名行列と見物人(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4337 大名行列と見物人(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4337 大名行列と見物人(1)

目録番号:4343 大名行列と見物人(2)

■ 確認結果

目録番号:4337「大名行列と見物人(1)」、目録番号:4343「大名行列と見物人(2)」と同じような写真が、”WEB 浮世絵”北斎・広重の浮世絵と東海道の古写真 はじめに に掲載されている。

その説明は、「明治初めに再現された大名行列 撮影データ不明」。撮影場所は不明だが、家並みや通りの様子から場所は特定できると思われる。