長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 205 富士川からの富士山(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号: 205 富士川からの富士山(2)
〔画像解説〕
日本三大急流の1つとして知られる富士川は、古来より幾筋も分流し、旅人を悩ませたようである。中州の向こう側には木橋が見えるが(要確認)、より下流のこのあたりでも渡船の必要があったのであろうか?
目録番号:4098 富士川からの富士山(6)
〔画像解説〕
富士川町岩淵(いわぶち)の富士川右岸の河原から北東方の富士山を遠望したもの。手前は岩淵の渡船場、対岸の森は富士市の松岡水神社(まつおかすいじんしゃ)である。水神社から岩淵に架橋されるが、写真には写っていない。富士川は急流のため、何度も流失し橋のない時期かもしれない。左手の山が岩本山(いわもとやま)で、対岸には松並木が続く。
■ 確認結果
目録番号: 205「富士川からの富士山(2)」は、次の目録番号:4098「富士川からの富士山(6)」のとおり、東海道の幕府領だった現富士市岩淵(いわぶち)渡船場の風景。木橋は「富士川橋」という。
富士川舟運については、次のHPに記事があり参照。画像解説は少し誤解がある説明となっている。木橋は富士川をヨコ渡りしているが、岩淵渡船場は、基本的に富士川をタテ流し、内陸と海を結び米や塩などの物流をしていたようで、木橋の完成とはあまり関係がないように思われる。
HP「開運 旧東海道 あちこち寄り道・散歩道」 富士川の渡し5 渡しの終焉
1871(明治4)年、太政官令により宿駅制が廃止となります。この法律は宿場制や駅馬制が廃止となっただけではなく、関所や渡船の制度も廃止となりました。また同時に渡船場には早急に仮橋を架けるようにとの太政官令も発令されました。
しかし、富士川は川幅も広く、資金もなかったため、すぐには仮橋は架けられませんでした。富士川に仮橋が架かったのは1878(明治11)年のことでした。その間も東海道は幹線ですから、渡し舟は続けられています。つまり明治4年の太政官令により、富士川の渡しは官営から民営になったということでした。画像は「富士川を渡る歴史」展の資料の中にある絵葉書です。こちらも同じく、富士川を渡る舟です。
1878年、富士川に仮橋が架けられると富士川の渡しが終わった訳ではありません。実はこの仮橋は冬の間だけ架けられたのでした。見て分かる通り、かなり安易な橋です。ですので増水の多い季節は取り壊されてしまい、その間は従来通り渡し舟で富士川を渡ったのでした。
この仮橋も実は渡橋料がかかりました。ひと1人1銭、牛馬、荷馬、人力車3銭8厘でした。これに対して渡船はひと1人5厘、牛馬5銭、荷馬3銭8厘でした。
大正初期の富士川仮橋です。明治の橋に比べるとかなり立派な造りになってきています。その理由はこのあたりに所有者がいたかどうかは分かりませんが、恐らく自動車の出現だと思います。
富士川橋の鉄橋工事です。1924(大正13)年、国道整備計画の一貫として、とうとう富士川にも鉄橋が架けられました。渡橋料も無料となり、富士川の渡しもついに廃止となりました。
HP「国土交通省甲府河川国道事務所」 ヨコ渡し・渡船場 地域の人々の掛け橋
富士川舟運は、甲斐・信州の内陸と駿河を結ぶことによって、遠く江戸や瀬戸内にまで連絡する社会・経済・文化の大動脈であった。これに対して、富士川にはもう一つの舟が航行していた。
対岸に渡るための「ヨコ渡し」と言われる舟の航行である。橋を架ける技術や経済力の未熟な時代であり、橋の役目を担っていたもので、後世には「渡船」と呼ばれた。富士川舟運が岩渕河岸から甲州三河岸までの縦方向を連絡するのに対し、ヨコ渡しは川の横方向を連絡するのでこの名がつけられた。ちなみに、富士川舟運は「タテ流し」とも言われた。ヨコ渡しの渡船場は富士川とその支川を含めるとかなりの数に上ったと思われるが、現在知り得る数は概ね50箇所である。
このヨコ渡しに用いられた舟の構造は、タテ流しの舟のように大量に運搬するものと違い、その量に見合った大きさのものが各渡船場で造られていた。昭和40年頃までその一部は残り、地域住民の足として活躍していた。