長崎外の古写真考 目録番号:5053 箱根の雪景色

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5053 箱根の雪景色

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5053 箱根の雪景色
〔画像解説〕
箱根は回数は多くないが、2月から3月に掛けて、かなりの大雪が降ることがある。また、箱根では標高により雪の量が明瞭に異なり、海抜300mと500m辺りに雪線があり、それ以下では殆ど積もらない。従って湯本や塔ノ沢ではなく、大平台よりも海抜が高い地域と推定されるが、場所は現段階では特定できない。

目録番号:388 大谷川合満ガ淵(2)
〔画像解説〕
日光含満ガ淵は大谷川の激流が男体山の溶岩を浸蝕して生じた淵である。 この地に百地蔵がある。 展望所の斜め上に地蔵が写っている。 渦巻く激流の名所である。

■ 確認結果

目録番号:5053「箱根の雪景色」は、次の目録番号:388「大谷川合満ガ淵(2)」と同じ場所の雪景色と思われる。
堂は日光含満ガ淵の不動明王の対岸に建っていた「霊庇閣」(れいひかく)という護摩堂。
現在の復元された堂の写真は、HP「日光を漂ふ」 2010.03.22 憾満ヶ淵 から。同関連記事
2004.12.12 含満ヶ淵 による説明は次のとおり。

含満ヶ淵 

この場所は、女峰山の噴火による溶岩が作り出した奇勝である。天海の跡を継いで第五十四世座主になった公海(晃海)が大谷川左岸の絶壁の上に不動明王の像を建て、その下の岩壁に「憾満(かんまん)」の梵字を養源院住職山順に書かせ刻ませた。この「憾満」というのは不動明王の真言・ナウマクサマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソハタヤ・ウンタラタ・カンマンの最後の句を漢字にしたもの。だから、この地を「憾満ヶ淵」、転じて「含満ヶ淵」とも言う。

公海は不動明王の対岸に霊庇閣(れいひかく)という護摩堂を建て、山内の僧侶に護摩供養をせしめた。明治三十五年九月の洪水のため、この大谷川流域は多大な被害があり、このあたりの人工施設は壊滅的な状態であったそうだ。今は霊庇閣のあった場所に護摩壇の跡が残るだけである。
霊庇閣は、昭和四十六年(1971)に復元されたもの。右画像の岩壁に、「憾満」の梵字が刻まれているはずなのだがよく判らない。もしかしたら、わずかに見える凹凸がそうなのかも知れない。そして、その岩上にはかつて不動明王があった。