長崎外の古写真考 目録番号:1617 田舎の子供たち

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1617 田舎の子供たち

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1617 田舎の子供たち
〔画像解説〕
写真中にCOUNTRY CHILDRENとある。場所は特定できないが、背景などから見て庭園に遠足で来た子供たちであろう。中央に男の先生らしい人が見える。大きな子から小さな子まで多学年にわたっている。子供たちの服装、表情など見る上で貴重な写真である。

■ 確認結果

目録番号:1617「田舎の子供たち」は、「庭園に遠足で来た子供たちであろう」か。灯籠があるから神社の水舎だろう。前かけをほとんど付けた子供たち。ある作業の休憩風景のように見える。
撮影者「日下部金兵衛」(1841−1932)は、甲府の出身。イギリス人カメラマン、F・ベアトの助手として修業。明治14年(1881)頃独立し、横浜に金幣写真館をひらいた。

山梨県南巨摩郡富士川町(旧鰍沢町)教育委員会が、明治時代?の同じような子供たちを写した貴重な写真を所蔵している。山梨県HPの「山梨県埋蔵文化財センター」の項に、次のとおり記事と写真がある。 http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/101-200/0188.html

遺跡トピックス№0188 鰍沢河岸跡[かじかざわかしあと]

鰍沢河岸跡は、富士川町(旧鰍沢町)明神町〜横町地区にある遺跡で、国道52号の改築工事や護岸工事に伴い、平成8年から19年度まで発掘調査が行われました。鰍沢河岸は、江戸時代初めに開かれた富士川水運の船着き場で、青柳河岸[あおやぎかし](富士川町)・黒沢河岸[くろさわかし](市川三郷町)とともに甲州三河岸と呼ばれました。
江戸時代には年貢米や塩の運搬、明治時代以降は様々な生活物資や人々の輸送を行い、昭和3(1928)年の富士身延鉄道(現在のJR身延線)全線開通により舟運の役割を終えるまで、甲府盆地の経済・文化の玄関口としての役割を担いました。発掘調査によって、富士川水運に関わる様々な施設や河岸を中心として発達した町並が発見されました。

河岸には欠かせない荷物置き場
平成8年度には、年貢米などを保管した御米蔵[おこめぐら]や検査場などの施設があったとされる御蔵台[おくらだい]周辺の発掘調査が行われ、建物跡や道路跡・杭列などが発見されました。また、御米蔵の前面にあたる場所から、カマボコ状の高まりが並ぶ施設が発見されました。
発掘当初は、この連続する高まりが何に利用されたのかわかりませんでしたが、鰍沢町教育委員会が所蔵する写真に、この高まりの上に荷物が置いてある様子が写っていたことから、荷物を置くための荷積み台[につみだい]であることがわかりました。荷物置き場は、荷物がたくさん集まる河岸には欠かせない施設です。写真では、たくさんの荷物が荷積み台に置かれ、鰍沢河岸が栄えていた様子がうかがえます。…

以上が「鰍沢町教育委員会が所蔵する写真」によって判明した、当時の富士川水運「鰍沢河岸船着き場の荷物置き場」。子供たちが荷物運搬に従事していた様子でないだろうか。
類推するとこの写真も、日下部金兵衛撮影と思われる。鰍沢河岸近くには、「妙法寺神社」がある。目録番号:1617「田舎の子供たち」の水舎はここと考えられるが、地元に検証をお願いしたい。