長崎の幕末・明治期古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む
筑摩書房「幕末 写真の時代(第2版)」2010年3月発行から、気付いた作品を取り上げる。
138頁 作品 138:飽ノ浦より長崎港を望む
〔画像解説〕
F・ベアト撮影 慶応年間(1865〜68)後半〜明治初期 鶏卵紙
文久元年(1861)長崎の対岸飽ノ浦の地に幕府はオランダの指導援助をうけ長崎製鉄所を完成している。この写真はその製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である。港内の軍艦はイギリスのバロッサ号であるという。
■ 確認結果
作品 138「飽ノ浦より長崎港を望む」は、横浜開港資料館蔵。F・ベアト撮影なのに、長崎大学テータベースでは見当たらない。横浜開港資料館はこんな画像解説をしているのだろうか。しかも筑摩書房の2010年3月15日発行最新写真集である。
この写真は、南山手の高台から造成中の松ヶ枝居留地越しに長崎港の湾奥を撮影していると思われる。左下隅の建物を調べてもらいたい。
撮影場所は「(飽ノ浦の長崎)製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である」とはならない。反対の方向を解説している。
写真左の尾根は、稲佐山からの尾根で、大鳥崎・稲佐崎・鵬ヶ崎の海岸となる。奥に岩屋山からの尾根と中央に浦上水源池近くの山、右は金比羅山の稜線となろう。
2枚目は、同写真集の作品 39「長崎港全景」ロシエ撮影 万延元年(1860)。53頁に掲載されている⑤の部分。イギリス国立公文書館蔵。
「現在グラバー邸の丘の上の写真機を据え…撮影。…⑤は飽ノ浦から続いている丘で、鵬ヶ崎。その岬の先端は浦上川河口」と解説している。左半分が、作品 138と同じような景色であることがわかるだろう。
参考のため長崎大学データベースから画像が鮮明な、目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」を掲げる。上野彦馬撮影。画像解説は次のとおり。
現在の写真は、グラバー園内の下の方の展望台から写した。
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。