月別アーカイブ: 2010年6月

長崎の古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場(2)

眼鏡橋の1つ下流の石橋「袋橋」脇の中島川公園に設置されている「長崎さるく説明板」に使用されている明治絵葉書の古写真。長崎歴史文化博物館所蔵となっている。
絵葉書のタイトルは「長崎市材木町魚市場」だが、さるく説明板は「中島川の成り立ち」として、次のとおり説明している。

中島川の成り立ち

明治時代の中島川の風景です。中島川は自然にできた川ではなく、長崎開港後、ポルトガルや中国との貿易港として栄えた南蛮時代に人工的に造られた川です。かつて「大川」とも呼ばれていた中島川は、まちの中心部を流れ、住民の生活のより所となる「母なる川」として、歴史的にも文化的にも重要な役割を果たしてきました。明治末期頃、中島川は輸送用の小船などが行き交い、重要な水路としてまだ利用されていました。写真は賑橋(当時の材木町)付近で、川を運搬路として利用し、魚市場等が設けられていました。

■ 確認結果

以上は、長崎の古写真考において前の記事とした長崎歴史文化博物館所蔵の明治絵葉書「長崎市材木町魚市場」。「長崎さるく説明板」の説明である。
前の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2356

ところが不思議なことがあった。株式会社図書刊行会「50 ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 長 崎」昭和58年8月発行 再版の59頁「●市場」に、この絵葉書写真とあと1枚新たな写真の掲載がある。画像解説は次のとおり。

98 材木町の魚市場
江戸時代より明治の末年まで魚市場は中島川の河口、材木町の石段を登ったところにあった。前方に見える鉄橋は賑橋である。

99 材木町の魚市場
中島川より石段を登ると石敷の広場があった。川には毎朝魚船が詰めかけ、魚の取引きが賑やかにその広場で行なわれていた。(写真は明治30年頃)

画像をおかしいなと思って見たら、絵葉書写真とは反転されて掲載されている。絵葉書写真を試しに1枚目に反転してみた。石橋だった賑橋は、1901年(明治34)フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられている。
写真集の初版発行は昭和54年6月。初版から反転されていたかはわからない。材木町の魚市場の位置や背景の山から考えると、反転の光景は誤りと思われる。越中先生、これで良いでしょうか。

同写真集には、別に次の間違いがあるようだ。
8頁 作品7 立神方面より港口を望む  撮影場所は戸町の丘(墓地)からである。
https://misakimichi.com/archives/2350

長崎外の古写真考 目録番号: 600 富士山とある宿場

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 600 富士山とある宿場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 600 富士山とある宿場
〔画像解説〕
原題は「箱根宿と富士山」となっているが、箱根宿にしては道幅が広すぎ、また松並木が見えるが、箱根では箱根神社の神が目を松で突かれたために嫌ったと言われる松を植えるのを控えるので、富士宮等他の場所であろう。

目録番号:1359 柏原の集落
〔画像解説〕
写真中にKASHIWABARA とある。柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。田沼街道沿いの集落であろう。整理番号13-20と全く同一写真であるが、それには本写真にはない富士山がはっきり写っている。右側の人力車が人の気配を感じさせる。

■ 確認結果

目録番号:600「富士山とある宿場」は、奥に見える富士山の大きさが違う?が、目録番号:1359「柏原の集落」と同じ場所の作品であろう。
目録番号:1359「柏原の集落」には、写真右下に「KASHIWABARA」とある。柏原は「駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する田沼街道沿いの集落であろう」としているが、次の資料による東海道「原宿と吉原宿の中間の宿・柏原宿」ではないだろうか。

現在の写真は、HP「悠々人の日本写真紀行」旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(30)原〜元吉原宿から。同説明は次のとおり。

間の宿・柏原本陣跡
柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にあった。丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところである。写真左手の標識には「間宿 柏原・本陣跡」と記されている。
柏原は冨士沼の鰻の蒲焼きが有名であった。中間のこの地点で蒲焼の匂いにたまらず、足を止めた旅人が多かったことであろう。
なお柏原の地名は、平安時代の東海道の柏原駅がこの辺にあったからという。古くからの宿場街であった。この先右手に見える寺が立円寺である。

柏原・望嶽碑
立円寺(りゅうえんじ)の境内に冨士を模した三角形の望嶽碑(写真略)がある。尾張藩の侍医柴田景浩(かげひろ)が、文化5年(1808年)に江戸に下る途中、立円寺に滞在した時に冨士を賞して碑を建てたという。
石碑の裏側には漢文でその謂れが書いてある。説明板によると、書き下し文で「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし…」と。…

なお、富士市「広報 ふじ」の、昭和62年5月20日457号の14頁に、次の記事があるので参照。  http://www3.city.fuji.shizuoka.jp/kouhoufuji/s62/kiji/457-14-01.htm

富士の今と昔 27
明治初期の柏原の街道すじの写真です。町内の森幸平さん(柏原)のお話です。
「右の木(写真下)は徳川(将軍)さんの植えた後藤の松だね。今の昭和放水路の東寄りだよ。昔このあたりは原宿と吉原宿の間(あい)の宿で、旅人でにぎわったそうだ。宿場の名物は、浮島沼でとれたうなぎの蒲焼きで、子供のころ食べたけれどうまかったねえ。鉄道が開通して街道はさびれ、昭和7年の大火で家並みも消えてしまったよ」
– 写真あり –
( 写真説明 ) 今 国道1号線昭和放水路付近
( 写真説明 ) 昔 明治初期の柏原の宿場 左奥の森は六王子神社

長崎外の古写真考 目録番号: 558 屋形舟(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 558 屋形舟(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 558 屋形舟(1)      関連作品 目録番号:598(2)、628(3)、738(4)、828(5)、1766(6)
〔画像解説〕
川を航行する屋形船に多くの人が乗船している。船頭2人が櫓をこぎ、他の12人は客か。男女入り交じった客はそれぞれ思い思いの場所でポーズをとっているが、川遊びか渡し船の演出写真と思われる。

目録番号:2658 隅田川の舟遊び(1) 関連作品 目録番号:2665(2)、4583(3)、4623(4)、
4772(5)
〔画像解説〕
2665・4543と同じ山谷堀河口の有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で撮影したもの。背後の大きな木のある辺りが牛の御前とも称された牛島神社(現在は下流の向島1丁目に移転)や長命寺(ちょうめいじ)の辺りである。中央の欄干に手をかけているの人が内田九一とすれば、九一の弟子が撮影したのものであろう。写真の周囲がカットされており、後に複写彩色され販売された写真である。

■ 確認結果

目録番号: 558「屋形舟(1)」ほか関連作品の6作品は、タイトルが「屋形舟」、撮影者:未詳、撮影地域:未詳となっているが、目録番号:2658「隅田川の舟遊び(1)」ほかの関連作品と同じ作品である。
したがって、撮影場所は東京の隅田川、撮影者は内田九一やその弟子、その他臼井秀三郎などとなる。集合が必要。
この項は次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2230

長崎の古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場

眼鏡橋の1つ下流の石橋「袋橋」脇の中島川公園に設置されている「長崎さるく説明板」に使用されている明治絵葉書の古写真。長崎歴史文化博物館所蔵となっている。
絵葉書のタイトルは「長崎市材木町魚市場」だが、さるく説明板は「中島川の成り立ち」として、次のとおり説明している。

中島川の成り立ち

明治時代の中島川の風景です。中島川は自然にできた川ではなく、長崎開港後、ポルトガルや中国との貿易港として栄えた南蛮時代に人工的に造られた川です。かつて「大川」とも呼ばれていた中島川は、まちの中心部を流れ、住民の生活のより所となる「母なる川」として、歴史的にも文化的にも重要な役割を果たしてきました。明治末期頃、中島川は輸送用の小船などが行き交い、重要な水路としてまだ利用されていました。写真は賑橋(当時の材木町)付近で、川を運搬路として利用し、魚市場等が設けられていました。

■ 確認結果

中島川公園には、清水崑の少年かっぱ「ぼんたくん」に会いに行ったのではない。数年前からここに設置されている「長崎さるく説明板」を確認に行った。 

ブログ長崎の手彩色絵葉書 http://ameblo.jp/ehagaki-nagasaki/theme-10011185899.html
「長崎魚市場は、寛永時代 (1624-1643) に長崎市金屋町に開設され、その後、魚町、材木町へと移りました。 寛永4年 (1664) 、材木町、中島海岸に移転した魚市場は、明治後期まで使用されたようです。…
この絵葉書の場所は築町付近で、右手には橋が見えます。この中島川には、日本初の鉄製の橋、銕橋 (くろがねばし)があります。長崎市民は親しみをこめて「てつばし」と呼んでいます」
とあり、誤解がある説明であろう。

「長崎さるく説明板」は、袋橋の所にある。下流の常盤橋を挟んで次の下流の賑橋を向いて設置されていたので可とした。しかし、上流に魚市橋があるので、市場の変遷を少しふれるべきだろう。隣の遊さるくゴール地点地図に賑橋が載っていないので、「写真は、このすぐ下流の賑橋(当時の材木町)付近で」くらいは説明してほしい。

ところで、古写真の右側の橋は「賑橋」だろうか。これは間違いない。HP「長崎・中島川石橋群と眼鏡橋【ここは長崎ん町】」の次記事を参照。フラットトラス構造の鉄橋の時代があった。賑橋脇には現在の通称、恵比須神社があるあたりで、電車軌道が斜めになって中島川を渡っている。
http://isidatami.sakura.ne.jp/isibasigun2.html

賑橋(にぎわいばし)(第十三橋)
賑橋は江戸時代初めに木廊橋として架橋され、「榎津橋」または「第十三橋」と呼ばれた。
1666年(寛文6)崇福寺の大壇越であった何高材(がこうざい)の寄進によって石橋に架けかえられたが、1795年(寛政7)の大水害で流失、1799年(寛政11)公費で再架橋された。
1901年(明治34)フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられ時、付近に魚市場があり賑わっていたことと、榎津町と材木町との間に架かっていて、どちらの町も「木」偏が付いていて、二つの木(き)が合う「にぎあう」ということで賑橋と改称されたと言われている。
1928年(昭和3)鉄筋コンクリート橋になり、現在の橋は1990年(平成2)に再架されたものである。

確認したのは、屋根上に少し写った背景の山並みである。賑町パーキング7階から見たら、現在の立山、長崎県立長崎東高校上の山(若杉山か。古写真の目線は低い)の稜線と思われる。
古写真と同じような橋の光景は、逆に上流右岸から榎津町を向いても写せる。そうすると山の姿が違う星取山あたりが写る。
あくまで絵葉書のタイトルどおり、中島川左岸(榎津町側)から材木町(現在は賑町)を向いて撮影した写真であろう。最後が「長崎さるく説明板」の設置場所。正面の橋は常盤橋である。

ぼんたくん?  長崎市栄町中島川公園

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ぼんたくん?  長崎市栄町中島川公園

あじさいの季節。眼鏡橋1つ下流の石橋「袋橋」脇の中島川公園に、有名な少年かっぱがいる。清水崑の漫画をモデルにした、クジラに乗った「ぼんたくん」。建立の碑文は次のとおり。

「ぼんたくん」・清水 崑

上潮にのって迷子になり中島川をのぼってきた子鯨を見つけて、少年かっぱのぼんたくん、背中に飛び乗り大喜び。昭和五十七年七月の大水害を忘れぬためにも、「ぼんたくん」を可愛がってください。  鯨見よ夕月縦に真半分 孤音(崑の俳号)
平成四年十月六日建立
原作 清水 崑  監修 清水恒子   制作 安藤 士・松平 実

詳しくは清水崑展示館を。http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/shimizu/history/index_5.html
後ろの写真は、袋橋下に残る船繋石と、スケッチ中の眼鏡橋。

「長崎市中の茶屋」オープン 丸山地区の新たな観光スポットに
(HOP STEP KYUSHU 2001年12月号166ページに掲載)

昨年、なかにし礼氏の小説や映画で盛り上がった「長崎ぶらぶら節」。その歌詞にも登場し、一躍脚光を浴びた「中の茶屋」が広く市民に利用できる施設として11月1日(2001年)にオープンした。
中の茶屋は、丸山(寄合町)の遊女屋「中の筑後屋」が江戸時代中期に茶屋を設けたところで、別名を「千代の宿」とも呼ばれていた。幕末期にできた俚謡「長崎ぶらぶら節」には、『遊びに行くなら 花月か中の茶屋』と読み込まれており、花月楼とともに丸山最高の茶屋として、長崎ばかりでなく他郷の人々にも知られ、内外の文人墨客が好んで親しんだ。長崎奉行の市中巡検の際にはその休憩所にあてられることも多かった。
長崎市は、この歴史的文化的な価値のある市指定史跡中の茶屋を保存活用するため、「清水崑展示館」「茶室・和室」「庭園」の3つの施設からなる「長崎市中の茶屋」を新たに設置した。
清水崑展示館は、長崎市出身の「かっぱ絵」で有名な清水崑画伯の遺族から寄贈を受けた約
3400点の作品の中から一部を展示。最初の展示となる今回は、寄贈を受けたすべてのジャンルを網羅した作品を展示しており、その芸術を知るうえで貴重な作品群となっている(入館料は一般100円、小中学生50円)。
茶室・和室は、施設の雰囲気にあった茶会や句会などの和風的な催し物に使用することができ、有料で貸し出している。
庭園は、往時の中の茶屋がしのばれ、無料で公開している。
史跡内に清水崑画伯の美術作品を組み合わせたこの「長崎市中の茶屋」が、今後、新しい丸山地区の観光スポットとなり多くの観光客が訪れることで、丸山地区の活性化だけでなく、長崎市の観光振興につながることが望まれている。

長崎の西空の夕日  10−09

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長崎の西空の夕日  10−09

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成22年 6月10日の19時22分頃
写真  4〜10  平成22年 6月13日の18時56分頃 くっきりと五島列島

長崎外の古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3077 川に架かる鉄道橋

■ 確認結果

目録番号:3077「川に架かる鉄道橋」は、F.ベアトの作品。明治初期に建設された見事な煉瓦橋梁を撮影している。琵琶湖疏水の京都・南禅寺水路橋をまず思いうかべるが、水路橋てはなく、鉄道橋である。
目録番号の前後から外国とは思われず、煉瓦建造物の日本近代建築史もまったくふれていないと思われる貴重な古写真だろう。 http://www.conso.jp/pdf/techno/archives/a0201.pdf

古写真は相当大きな川の平野部を写している。アーチは20以上ある。装飾と見える独特なアーチの造り。複線化に備え、表面の煉瓦を下駄歯にしているようにも見えたため、国登録有形文化財(建造物)の「内田3連橋梁」、「勾金3連橋梁」ほか19橋梁が残る明治28年開業した豊州鉄道の「彦山川橋梁」(現在の平成筑豊鉄道田川線、田川伊田駅近く)ではないかと、2010年3月5日記事にしていた。

これは素人考えの私のまったくヤボな考察だった。宮崎在住のHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」氏から、「古写真の煉瓦大アーチ橋の件ですが、どこにあったものでしょう。特徴的なのは輪石部分で、一般的な下駄歯ではなく、装飾的なものですね。壁石部分がフラットになっているので、拡幅に備えたものではないと思います。彦山川橋梁とは全く別のもののような気がします」と、メールをすぐ受けていた。
決定的なのは、前記事に対するきょう [ town_m_resp ] 氏の、次のコメントによるご教示である。

「検索していたらたどり着きました。この写真ですが、彦山川橋梁とするには少し弱い気がします。
1  F・ベアトは明治17年に日本を離れており、以後、スーダン戦争への参加・ロンドンやビルマ在住などが確認されてますからこの橋が建設された明治28年には撮影は難しいのでは?
2 下駄歯らしきものがみえますが、これは他でも事例がないことはないですし、河川橋梁だとすればいくら渇水期でも水量が少なすぎます。
私は他のFベアトの記録写真の状況を含めると下津林の鉄路閣じゃないかと思うんですが・・・いかがでしょうか。」  2010/6/9(水) 午後 2:31 [ town_m_resp ]

”下津林の鉄路閣”をウェブ検索すると、次の記事が出てくる。京都の桂川近くにあった国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)に間違いない。
「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)に掲載されているので、長崎大学側で京都新聞の記事とも確認していただきたい。

【京都】明治初期に造られ昭和初期に姿を消した、れんが造り25連アーチ鉄道橋「下津林避溢橋」の全体写真確認(画像あり)
1:西独逸φ ★:2008-08-13 19:24:13

明治初期、官設鉄道(現JR)東海道線に造られ、昭和初期に姿を消したとされる国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)の写真を、山田奨治・国際日本文化研究センター准教授が確認した。これまで不鮮明な写真はあったが、25連アーチ橋の全体像を収めた写真は珍しい。橋が撤去された記録はなく、「近代化遺産としての価値があり、軌道下の土手中に埋まっている可能性もある」という。

写真は、明治初期の日本の風景を記録した「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)の中の1枚。写真の解説文を担当し、調査していた山田准教授が、鉄道専門家に聞くなどして確認した。

避溢橋は、洪水時に線路の土手が水を遮らないよう平地にアーチ型などの形状で設けられる橋。下津林避溢橋は、大阪−京都間開通の前年、1876(明治9)年に完成。長さ447フィート(約136メートル)、高さ推定約5・5メートルで、避溢橋では国内最長。25のアーチが連続する構造で、第四有楽町高架橋(東京)を上回る最多のれんがアーチ数とみられる。

地元では、「25の丸がた(形)」と呼ばれ、原っぱの中のモダンな景観として親しまれたが、いつしか姿を消した。1930(昭和5)年の複々線化に伴い、現在のような土手になったとみられるが、記録は残っていない。写真を見た中川浩一・茨城大元教授(歴史地理学)は「桂川の水害防止の環境が整い、避溢橋の機能が不要になったのではないか。南禅寺境内の『水路閣』をはるかにしのぐ規模で、『鉄路閣』と呼ぶにふさわしい」と話す。

鉄道遺構に詳しい鉄道総研(東京)の小野田滋氏は「鉄道の構造物は、列車の荷重や地盤沈下、温度伸縮などで複雑に変形する。25連のアーチ橋は設計の限界への挑戦といえる」と指摘し、今も軌道下に埋まっている可能性を示唆する。
ソース 京都新聞
【画像】25連アーチが独特の景観を醸していた下津林避溢橋。「大日本全国名所一覧」では「七條磧鉄道」と記されていた。1881(明治14)年ごろまでの撮影とみられる。

[ town_m_resp ]氏のご教示に深く感謝したい。「彦山川橋梁」(現在の平成筑豊鉄道田川線、田川伊田駅近く)と考えた前の記事は、調査不足のため誤りとわかり削除した。
なお、平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の179頁に掲載されている下京之部「七條磧鉄道」は、最後の写真のとおり。
同解説では「現在のJR東海道線と思われるが、不明」としかない。F・ベアト撮影が鮮明な煉瓦造大アーチ橋の姿を写し、いかに貴重な古写真となるかわかるだろう。

出雲近隣公園  長崎市出雲1丁目

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出雲近隣公園  長崎市出雲1丁目

2010年4月、旧出雲浄水場の跡地が「出雲近隣公園」となってオープンしている。車道入口は、二本松から長崎霊園へ向かいその途中から下る。現地説明板は次のとおり。

旧出雲浄水場について

この公園は、出雲浄水場の跡地に建設されたものです。出雲浄水場は、1926年(大正15年)3月に完成し、1987年(昭和62年)小ヶ倉浄水場の完成により廃止されました。当時、市南部の87,000人の市民への供給を目的として建設されました。
また、公園の地下には、当時利用されていた濾過池が今も埋められており、鉄筋コンクリート構造物としては、長崎最初の構造物となります。

ほしなべさんの「長崎遠めがね2」は、 http://hoshinabe.ojaru.jp
小ヶ倉水源池との旧導水トンネルは、 https://misakimichi.com/archives/1204

長崎の西空の夕日  10−08

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長崎の西空の夕日  10−08

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1      平成22年 5月30日の19時23分頃
写真  2〜 3  平成22年 6月 1日の19時06分頃
写真  4〜 5  平成22年 6月 2日の10時04分頃 午前の潮目流れ
写真  6〜 7  平成22年 6月 4日の19時32分頃
写真  8〜 9  平成22年 6月 5日の18時51分頃
写真 10      平成22年 6月 6日の19時02分頃
写真 11〜14  平成22年 6月 7日の18時51分頃

長崎の古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品の2、3点目。

136頁  作品 151:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
右手奥の岬は長崎の港口・女神、中央に浮かぶ島は高鉾島である。高鉾島はキリシタン時代の殉教地の1つで、長崎に来航したオランダ人はパーペンべルグ島(神父の島)とよんだ。左手の入り江は戸町の港である。

136頁  作品 152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
中央・高鉾島の後方の大きな島は伊王島、すぐ左手は香焼島、そしてその前の小さな島はねずみ島。慶長15年(1610)、有馬晴信に攻撃されたマドレ・デ・デウス号は、高鉾島と伊王島の間で撃沈されている。

■ 確認結果

「甦る幕末」の2作品とも、長崎港口の「高鉾島」を撮影した古写真。長崎大学データベースにより”高鉾島”と検索すると、48点と多くある。上野彦馬撮影の目録番号:5321「高鉾島(26)」及び目録番号:5320「高鉾島(25)」と同じ作品である。

「甦る幕末」の作品 151 は、タイトルを「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。画像解説の「左手の入り江は戸町の港である」はそのとおり。「立神」は、長崎港を挟んだ「戸町」の対岸。撮影場所がタイトルのように「立神の丘より」となることはない。

「右手奥の岬は長崎の港口・女神」も「左手からの奥の岬」か。写真に写っているのは、女神の1つ前の中小造船所がある岬である。右手前の墓地上となる尾根は、マンション建設のため削られ、稜線が変わっている。
長崎大学データベースの目録番号:5321「高鉾島(26)」の解説どおり、撮影場所は「戸町の背後の山から」が正しい。具体的には「戸町の山手墓地(勝廊寺墓地)から」撮影されている。

作品 152 も、タイトルを一緒に「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。長崎大学データベースの目録番号:5320「高鉾島(25)」の作品。
同解説は「戸町の背後の山から長崎湾口を撮影したもの。写真中央の島が高鉾島。右の半島の先が神埼鼻、その向こうに神の島があり、その左の島が高鉾島」と説明している。

この作品の撮影場所は、検証が必要である。前の作品 151 と同じ「戸町の山手墓地から」撮影されたように思われるが、そうではない。
「神の島」や小さな「ねずみ島」が、高鉾島の右側に見える。左側からの「香焼島」や「伊王島」は、高鉾島ピーク上の高い水平線上に写っている。同じ「高鉾島」を撮影していても、高度感と光景がまったく違う写真だろう。

私の調査では、「星取山」(標高270.0m)山頂が、この写真の撮影場所と考えられる。戸町墓地背後のさらに高い山。上野彦馬はアメリカ隊金星観測の写真撮影に関わったことがある。
ベアトなどが星取山から長崎市街や港の方を撮影した写真もある。
( 参照  https://misakimichi.com/archives/1877 )
山頂一帯は現在、NTT長崎統制無線中継所や長崎市水道の巨大配水タンク場となって立入禁止である。周りは植林・雑木・竹が茂り、長崎港口方面の視界がきかない。
古写真と同じ「高鉾島」の光景を確認できないので、南東側の山腹「大正寺星取墓地公園」(星取2丁目)と、北西側「錦職寺墓地」(長崎霊園の上 出雲3丁目)からの写真を載せた。