月別アーカイブ: 2010年6月

釣れた? 釣具店の釣人 (12)  長崎市平山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

釣れた? 釣具店の釣人 (12)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

イカねらいのエギングロッド。梅雨入りでもがんばろう!。

長崎の古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品を次記事とも3点取り上げる。

110頁  作品 123:長崎市街風景
〔画像解説〕
手前中央に石橋があり、遠景の右に片渕町、左に諏訪神社の森、遠くに三ツ山が見える。しかし、この石橋はどこの橋か。珍しい写真である。

■ 確認結果

石橋が群を成した中島川のみで考えるから、手前中央の石橋は「どこの橋か」わからなくなったのだろう。中島川は左上の家並みの中を流れている。写真の石橋は、変流埋め立て前の銅座川に架かっていた「新地蔵所」南門の石橋なのである。
撮影場所は、現在の梅香崎郵便局から遠見番長屋跡や活水大学へ上がる石段の途中にある「天満宮」の高台あたりから撮影されたと思われる。左上隅は金比羅山の山頂である。
現在の写真は、山並みが確認できないため、天満宮より少し上部の場所から撮影した。

新地蔵所(しんちくらしょ)は、江戸時代に長崎の新地町に造られた貨物倉庫である。元禄11年(1698)後興善町から出火した火災により、当時長崎に入港していた唐船20隻分の荷物を収納していた樺島町(椛島町)の土蔵が全焼した。
そのため、浜町の海岸沿いを埋め立てて人工島を築造し、そこに唐船専用の貨物を納める倉庫を建造する事になった。翌12年(1699)着工、同15年(1702)に倉庫が完成した。
島の構内は土塀で囲まれていて、出入り口は東側の正門と南東側の南門の2ヶ所。正門は新地橋で西浜町と、南門は石橋で広馬場や唐人屋敷とそれぞれ結ばれていた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

長崎大学のデータベースでは所蔵がないのか、この古写真は見当たらない。目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」には、新地蔵所の正門、新地橋の石橋が写っている。
広場場や唐人屋敷と結ぶ南門も、奥の船溜りに入るため橋高なアーチ式石橋が手前に架かっていた。長崎名勝図絵に描かれ石橋の記録があるものの、初めて石橋の姿がわかった貴重な古写真と思われる。
目録番号:3855「大徳寺遠望」(略)は、南門石橋上から大徳寺を撮影したようだ。

古写真左側に写っている長屋の建物が、「新地蔵所」の蔵の一角である。南門の橋は、布袋厚氏著「復元! 江戸時代の長崎」長崎文献社 2009年発行 180頁の、【250】唐人屋舗付近の復元図では「板橋」となっている。
正門の新地橋と同時に架設したと思われる石橋が、広馬場側にも実際あったのである。
同復元図によると、南門石橋の位置は、現在の広馬場商店街通り入口、左角の前三菱信用組合広馬場支店の建物(現在は、オガワ・デンタル・クリニック)後ろあたりと考えられる。路地が川筋の形状をしている。駐車場に橋材だったと思われる石がまだ残っていた。

幕末の「肥前長崎図」は、九州大学デジタルアーカイブから、川原慶賀筆「長崎図」の一部は、筑摩書房「江戸時代図誌25 長崎・横浜」から参考のため。長崎古今集覧名勝図絵(稿本)には、南門の石橋が「新地南門より唐人屋敷荷物運図」、「祭舟流図」などに描かれている。
「図ー5 港湾改修工事と橋の架設」は、長崎古写真集(居留地篇)130頁から。同関係年表では、「明治2年(1869) 10月、新地背面の築き増し工事完成により、新地が島でなくなる」とある。したがって撮影年代はそれ以前となる。最後は南門古写真の拡大。石橋に間違いないだろう。

この石橋のことは、記事を2010年12月12日に追加したので、次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2462

長崎の古写真考 「写された幕末」石黒敬七コレクションなどから

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 「写された幕末」石黒敬七コレクション」などから

発行が古いが、古写真集「写された幕末」石黒敬七コレクションなどから、長崎以外も気付いた作品。写真上から。

(1)長崎出島・同薬園
石黒敬七編「写された幕末 1」アソカ書房 昭和32年4月15日発行 34頁
⑥上の長崎出島の解説はともかく、⑥下は「その薬園」とはならない。出島ではなく大浦居留地の製茶工場跡などの空き草地だろう。現在のNTT長崎病院と孔子廟あたり。
次を参照。  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=3880

(2)長崎崇福寺山門
石黒敬七編「写された幕末 2」アソカ書房 昭和32年12月15日発行 66頁
「崇福寺」ではなく、「興福寺」の開山堂(観音堂 戦災で焼失)を麹屋町通りから撮影している。この古写真は「写された幕末ー石黒敬七コレクション」明石書店 1997年9月30日発行第4版 154頁にも掲載され、解説は「崇福寺」のままとなっている。
次の参照。  https://misakimichi.com/archives/2269

(3)大名上屋敷
石黒敬七編「写された幕末 3」アソカ書房 昭和34年11月10日発行 68頁
「島津屋敷」ではなく、最近の研究により、場所は現在、東京都港区三田2丁目の「綱坂」。右の長屋は「肥前(備前は誤り)島原藩松平家中屋敷」と判明している。
次を参照。  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=1443

(4)京都の大鐘
塚原清一編「続巻 写された幕末 1 英字新聞 ファー・イースト写真集」アソカ書房 昭和37年6月30日発行 93頁
京都市東山区「方広寺」の大鐘だろう。鐘を置いたままの事情がある。
次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2293

轟の滝林道のカツラ  諫早市高来町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

轟の滝林道のカツラ  諫早市高来町

諫早市高来町の「いこいの村長崎」から轟の滝へ行く林道がある。烽火山(標高554.3m)の山腹を通るが、轟渓谷近くとなり、林道正面に三角な高い鳥屋岳(標高710m)の岩峰が見える辺りから、ガードレールの右下斜面を見て行く。

タブやシイの大木が続くが、カツラの大木もある。大カーブすると、すぐ先には「烽火山遊歩道」入口と駐車場があった。最後の写真が、同遊歩道入口駐車場から見た鳥屋岳。
林道地図は「高来烽火山の烽火台跡」を。 https://misakimichi.com/archives/2344
HP「長崎の樹木」街路樹高来町による説明は次のとおり。

カツラ(桂)

「いこいの村長崎」近くの山道にはカツラの巨木がある。渓谷の轟峡の秋の景観はいい! …
カツラ科カツラ属 落緑高木 雌雄異株
しばしば株から数本の幹をだす。樹皮は縦に割れ目ができる。葉は対生し3〜8cmの広卵形で波状の鋸歯がある。
4月頃、葉が出る前に花をつける。花弁や萼片はなく、基部は2〜4個の苞に包まれる。雄花は多数の雄しべがあり、葯は紅色で線形。雌花は3〜5個の雌しべがあり、柱頭は糸状で淡紅色。
果実は1〜1.5cm袋果で円柱形。

高来烽火山のスタジイ  諫早市高来町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

高来烽火山のスタジイ  諫早市高来町

諫早市高来町いこいの村長崎後方の「烽火山」(標高554.3m)。「高来烽火山の烽火台跡」は、前日の記事としているから参照。 https://misakimichi.com/archives/2344

この地図の林道轟の滝側に歩いて登る「烽火山遊歩道」がある。HP「長崎の樹木」2010年4月13日更新に、遊歩道途中のスタジイの記事があり、復元されている烽火台とも見に行った。
同HPによる説明は次のとおり。後ろの写真は、遊歩道の少し上、右側大岩の奥で見かけた別の大木。
大スタジイ

諫早市高来町の「いこいの村長崎」から轟滝に向かって烽火山沿いに林道を進むと、途中に烽火山に登る表示板がある。表示板から5分ほど山道を登るとスタジイの巨木がある。幹周りはおよそ6m。大きくはないが板根も見られる。烽火山にはシイやタブの巨木は多い。