高来烽火山の烽火台跡  諫早市高来町小峰

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高来烽火山の烽火台跡  諫早市高来町小峰

諫早市高来町の「いこいの村長崎」後ろに「烽火山」(標高554.3m)という山がある。。他の場所の烽火山と区別するため「高来烽火山」と呼ばれている。平成17年に復元されている烽火台があるので見学に行った。
実際の烽火台は、山頂にあったのではない。烽火台跡は山腹の「小峰」という所にあった。現在の烽火台は見学できるよう、「いこいの村長崎公園」の多良岳へ向かう林道分岐角に復元されている。現地説明板は次のとおり。
小峰烽火山について

この烽火台は、烽火山中にあるものを復元したものです。「烽台」(ともしびだい)は、現在烽火山という地名として残っている。天智天皇が「和銅元年(七一三)諸国の「造」(みやっこ)に命じて庶民の生活状況を求めた」と肥前風土記にあるが、この烽火台はその年代の史跡である。
天智天皇は唐・新羅軍の来襲に備え六三三年西国に防人を置き城を築かれた。同時に烽火台を設け、昼は煙で、夜は火炎で敵の来襲を伝達する方法をもとられたのである。
伝達経路は、西彼野母崎の権現山や諫早有喜の普賢岳、本町の小峰峰火山、太良の風配というように次々に伝達され、大宰府に届くしくみであった。
江戸時代になり、黒船の来襲を告げるため、寛永十五年(一六三八)新たに長崎に狼煙台が設けられたが、ここからこの烽(ともしび)も同じ経路で幕府に伝達する役割を持っていた。小峰烽火山はかかる役目を果たした史跡である。
平成十七年三月     諫早市教育委員会  高来文化協会

公園角に復元されている烽火台は、直径2.5m、高さ1.5mほどの丸い石積み。小型な烽火台である。下部4箇所に通気穴がある。
烽火台が実際あった場所は、林道を上へ行き、林道から100m位入ったヒノキ林尾根の上。位置を示す史跡表示板と同じような説明板があった。今は植林に囲まれ、視界が利かない。有喜・太良方面は、近くから写した。
林道をさらに上がると、烽火山山頂まで車道がある。諫早湾干拓の堤防道路が良く眺められる。烽火山の反対側は轟渓谷へ林道が通じ、途中に歩いて登る「烽火山遊歩道」入口案内板があるが、遊歩道は荒れている。