長崎の古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場

眼鏡橋の1つ下流の石橋「袋橋」脇の中島川公園に設置されている「長崎さるく説明板」に使用されている明治絵葉書の古写真。長崎歴史文化博物館所蔵となっている。
絵葉書のタイトルは「長崎市材木町魚市場」だが、さるく説明板は「中島川の成り立ち」として、次のとおり説明している。

中島川の成り立ち

明治時代の中島川の風景です。中島川は自然にできた川ではなく、長崎開港後、ポルトガルや中国との貿易港として栄えた南蛮時代に人工的に造られた川です。かつて「大川」とも呼ばれていた中島川は、まちの中心部を流れ、住民の生活のより所となる「母なる川」として、歴史的にも文化的にも重要な役割を果たしてきました。明治末期頃、中島川は輸送用の小船などが行き交い、重要な水路としてまだ利用されていました。写真は賑橋(当時の材木町)付近で、川を運搬路として利用し、魚市場等が設けられていました。

■ 確認結果

中島川公園には、清水崑の少年かっぱ「ぼんたくん」に会いに行ったのではない。数年前からここに設置されている「長崎さるく説明板」を確認に行った。 

ブログ長崎の手彩色絵葉書 http://ameblo.jp/ehagaki-nagasaki/theme-10011185899.html
「長崎魚市場は、寛永時代 (1624-1643) に長崎市金屋町に開設され、その後、魚町、材木町へと移りました。 寛永4年 (1664) 、材木町、中島海岸に移転した魚市場は、明治後期まで使用されたようです。…
この絵葉書の場所は築町付近で、右手には橋が見えます。この中島川には、日本初の鉄製の橋、銕橋 (くろがねばし)があります。長崎市民は親しみをこめて「てつばし」と呼んでいます」
とあり、誤解がある説明であろう。

「長崎さるく説明板」は、袋橋の所にある。下流の常盤橋を挟んで次の下流の賑橋を向いて設置されていたので可とした。しかし、上流に魚市橋があるので、市場の変遷を少しふれるべきだろう。隣の遊さるくゴール地点地図に賑橋が載っていないので、「写真は、このすぐ下流の賑橋(当時の材木町)付近で」くらいは説明してほしい。

ところで、古写真の右側の橋は「賑橋」だろうか。これは間違いない。HP「長崎・中島川石橋群と眼鏡橋【ここは長崎ん町】」の次記事を参照。フラットトラス構造の鉄橋の時代があった。賑橋脇には現在の通称、恵比須神社があるあたりで、電車軌道が斜めになって中島川を渡っている。
http://isidatami.sakura.ne.jp/isibasigun2.html

賑橋(にぎわいばし)(第十三橋)
賑橋は江戸時代初めに木廊橋として架橋され、「榎津橋」または「第十三橋」と呼ばれた。
1666年(寛文6)崇福寺の大壇越であった何高材(がこうざい)の寄進によって石橋に架けかえられたが、1795年(寛政7)の大水害で流失、1799年(寛政11)公費で再架橋された。
1901年(明治34)フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられ時、付近に魚市場があり賑わっていたことと、榎津町と材木町との間に架かっていて、どちらの町も「木」偏が付いていて、二つの木(き)が合う「にぎあう」ということで賑橋と改称されたと言われている。
1928年(昭和3)鉄筋コンクリート橋になり、現在の橋は1990年(平成2)に再架されたものである。

確認したのは、屋根上に少し写った背景の山並みである。賑町パーキング7階から見たら、現在の立山、長崎県立長崎東高校上の山(若杉山か。古写真の目線は低い)の稜線と思われる。
古写真と同じような橋の光景は、逆に上流右岸から榎津町を向いても写せる。そうすると山の姿が違う星取山あたりが写る。
あくまで絵葉書のタイトルどおり、中島川左岸(榎津町側)から材木町(現在は賑町)を向いて撮影した写真であろう。最後が「長崎さるく説明板」の設置場所。正面の橋は常盤橋である。