長崎外の古写真考 目録番号: 600 富士山とある宿場

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 600 富士山とある宿場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 600 富士山とある宿場
〔画像解説〕
原題は「箱根宿と富士山」となっているが、箱根宿にしては道幅が広すぎ、また松並木が見えるが、箱根では箱根神社の神が目を松で突かれたために嫌ったと言われる松を植えるのを控えるので、富士宮等他の場所であろう。

目録番号:1359 柏原の集落
〔画像解説〕
写真中にKASHIWABARA とある。柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。田沼街道沿いの集落であろう。整理番号13-20と全く同一写真であるが、それには本写真にはない富士山がはっきり写っている。右側の人力車が人の気配を感じさせる。

■ 確認結果

目録番号:600「富士山とある宿場」は、奥に見える富士山の大きさが違う?が、目録番号:1359「柏原の集落」と同じ場所の作品であろう。
目録番号:1359「柏原の集落」には、写真右下に「KASHIWABARA」とある。柏原は「駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する田沼街道沿いの集落であろう」としているが、次の資料による東海道「原宿と吉原宿の中間の宿・柏原宿」ではないだろうか。

現在の写真は、HP「悠々人の日本写真紀行」旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(30)原〜元吉原宿から。同説明は次のとおり。

間の宿・柏原本陣跡
柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にあった。丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところである。写真左手の標識には「間宿 柏原・本陣跡」と記されている。
柏原は冨士沼の鰻の蒲焼きが有名であった。中間のこの地点で蒲焼の匂いにたまらず、足を止めた旅人が多かったことであろう。
なお柏原の地名は、平安時代の東海道の柏原駅がこの辺にあったからという。古くからの宿場街であった。この先右手に見える寺が立円寺である。

柏原・望嶽碑
立円寺(りゅうえんじ)の境内に冨士を模した三角形の望嶽碑(写真略)がある。尾張藩の侍医柴田景浩(かげひろ)が、文化5年(1808年)に江戸に下る途中、立円寺に滞在した時に冨士を賞して碑を建てたという。
石碑の裏側には漢文でその謂れが書いてある。説明板によると、書き下し文で「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし…」と。…

なお、富士市「広報 ふじ」の、昭和62年5月20日457号の14頁に、次の記事があるので参照。  http://www3.city.fuji.shizuoka.jp/kouhoufuji/s62/kiji/457-14-01.htm

富士の今と昔 27
明治初期の柏原の街道すじの写真です。町内の森幸平さん(柏原)のお話です。
「右の木(写真下)は徳川(将軍)さんの植えた後藤の松だね。今の昭和放水路の東寄りだよ。昔このあたりは原宿と吉原宿の間(あい)の宿で、旅人でにぎわったそうだ。宿場の名物は、浮島沼でとれたうなぎの蒲焼きで、子供のころ食べたけれどうまかったねえ。鉄道が開通して街道はさびれ、昭和7年の大火で家並みも消えてしまったよ」
– 写真あり –
( 写真説明 ) 今 国道1号線昭和放水路付近
( 写真説明 ) 昔 明治初期の柏原の宿場 左奥の森は六王子神社