長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:3077 川に架かる鉄道橋
■ 確認結果
目録番号:3077「川に架かる鉄道橋」は、F.ベアトの作品。明治初期に建設された見事な煉瓦橋梁を撮影している。琵琶湖疏水の京都・南禅寺水路橋をまず思いうかべるが、水路橋てはなく、鉄道橋である。
目録番号の前後から外国とは思われず、煉瓦建造物の日本近代建築史もまったくふれていないと思われる貴重な古写真だろう。 http://www.conso.jp/pdf/techno/archives/a0201.pdf
古写真は相当大きな川の平野部を写している。アーチは20以上ある。装飾と見える独特なアーチの造り。複線化に備え、表面の煉瓦を下駄歯にしているようにも見えたため、国登録有形文化財(建造物)の「内田3連橋梁」、「勾金3連橋梁」ほか19橋梁が残る明治28年開業した豊州鉄道の「彦山川橋梁」(現在の平成筑豊鉄道田川線、田川伊田駅近く)ではないかと、2010年3月5日記事にしていた。
これは素人考えの私のまったくヤボな考察だった。宮崎在住のHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」氏から、「古写真の煉瓦大アーチ橋の件ですが、どこにあったものでしょう。特徴的なのは輪石部分で、一般的な下駄歯ではなく、装飾的なものですね。壁石部分がフラットになっているので、拡幅に備えたものではないと思います。彦山川橋梁とは全く別のもののような気がします」と、メールをすぐ受けていた。
決定的なのは、前記事に対するきょう [ town_m_resp ] 氏の、次のコメントによるご教示である。
「検索していたらたどり着きました。この写真ですが、彦山川橋梁とするには少し弱い気がします。
1 F・ベアトは明治17年に日本を離れており、以後、スーダン戦争への参加・ロンドンやビルマ在住などが確認されてますからこの橋が建設された明治28年には撮影は難しいのでは?
2 下駄歯らしきものがみえますが、これは他でも事例がないことはないですし、河川橋梁だとすればいくら渇水期でも水量が少なすぎます。
私は他のFベアトの記録写真の状況を含めると下津林の鉄路閣じゃないかと思うんですが・・・いかがでしょうか。」 2010/6/9(水) 午後 2:31 [ town_m_resp ]
”下津林の鉄路閣”をウェブ検索すると、次の記事が出てくる。京都の桂川近くにあった国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)に間違いない。
「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)に掲載されているので、長崎大学側で京都新聞の記事とも確認していただきたい。
【京都】明治初期に造られ昭和初期に姿を消した、れんが造り25連アーチ鉄道橋「下津林避溢橋」の全体写真確認(画像あり)
1:西独逸φ ★:2008-08-13 19:24:13
明治初期、官設鉄道(現JR)東海道線に造られ、昭和初期に姿を消したとされる国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)の写真を、山田奨治・国際日本文化研究センター准教授が確認した。これまで不鮮明な写真はあったが、25連アーチ橋の全体像を収めた写真は珍しい。橋が撤去された記録はなく、「近代化遺産としての価値があり、軌道下の土手中に埋まっている可能性もある」という。
写真は、明治初期の日本の風景を記録した「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)の中の1枚。写真の解説文を担当し、調査していた山田准教授が、鉄道専門家に聞くなどして確認した。
避溢橋は、洪水時に線路の土手が水を遮らないよう平地にアーチ型などの形状で設けられる橋。下津林避溢橋は、大阪−京都間開通の前年、1876(明治9)年に完成。長さ447フィート(約136メートル)、高さ推定約5・5メートルで、避溢橋では国内最長。25のアーチが連続する構造で、第四有楽町高架橋(東京)を上回る最多のれんがアーチ数とみられる。
地元では、「25の丸がた(形)」と呼ばれ、原っぱの中のモダンな景観として親しまれたが、いつしか姿を消した。1930(昭和5)年の複々線化に伴い、現在のような土手になったとみられるが、記録は残っていない。写真を見た中川浩一・茨城大元教授(歴史地理学)は「桂川の水害防止の環境が整い、避溢橋の機能が不要になったのではないか。南禅寺境内の『水路閣』をはるかにしのぐ規模で、『鉄路閣』と呼ぶにふさわしい」と話す。
鉄道遺構に詳しい鉄道総研(東京)の小野田滋氏は「鉄道の構造物は、列車の荷重や地盤沈下、温度伸縮などで複雑に変形する。25連のアーチ橋は設計の限界への挑戦といえる」と指摘し、今も軌道下に埋まっている可能性を示唆する。
ソース 京都新聞
【画像】25連アーチが独特の景観を醸していた下津林避溢橋。「大日本全国名所一覧」では「七條磧鉄道」と記されていた。1881(明治14)年ごろまでの撮影とみられる。
[ town_m_resp ]氏のご教示に深く感謝したい。「彦山川橋梁」(現在の平成筑豊鉄道田川線、田川伊田駅近く)と考えた前の記事は、調査不足のため誤りとわかり削除した。
なお、平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の179頁に掲載されている下京之部「七條磧鉄道」は、最後の写真のとおり。
同解説では「現在のJR東海道線と思われるが、不明」としかない。F・ベアト撮影が鮮明な煉瓦造大アーチ橋の姿を写し、いかに貴重な古写真となるかわかるだろう。