月別アーカイブ: 2013年4月

昭和7年に脇岬を訪ねた種田山頭火の句

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

昭和7年に脇岬を訪ねた種田山頭火の句

旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が長崎文献社から発行され、きょうの新聞で新刊案内があっている。
「みさき道」街道図に重大な印刷間違いがあり、全冊刷り直されるので、しばらく購入は待っていただきたい。

この本の54,55頁「古刹観音寺の魅力」の中に、青線のとおり種田山頭火の1句のみが簡単に紹介されている。脇岬を訪ねた山頭火「行乞記」の詳しくは、次のとおりであるので、「みさき道」に関係し改めて紹介したい。

種田山頭火は、昭和7年(1932)2月7日に脇岬を海路で訪ねた。「行乞記」の記録は次のとおり。
二月七日 (追加)晴、肥ノ岬(脇岬)へ、発動船、徒歩。……
第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、今日の記は別に書く、今日の句としては、
・明けてくる山の灯の消えてゆく
・大海を汲みあげては洗ふ(船中)
・まへにうしろに海見える草で寝そべる
・岩にならんでおべんたうののこりをひろげる

山頭火の4句の独特な解釈は、タッちゃんへお願いしたので、次のブログ記事を参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/53831246.html
脇岬の海岸風景は、「大正十一年頃のガラス写真」にあった。この写真は脇岬に間違いないだろう。

二月七日(日)
第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、・・・
この日は旧暦の正月2日に当たり、しかも日曜日。前日に初日の出を拝んだ人たちや、「みさき道」の終着点である観音寺へ初詣に出かける人たち、晴着を着た近隣の人たちでにぎやかだったと思う。

晴着については、次の日に現在の諫早市飯盛町でも見ているから、そうだと想像できる。
山頭火は一応、曹洞宗の修行僧。ふだんはくたくたの法衣を着ている。
時には匂っていたことがあるかもしれない(笑)。ハレの日に、そんな山頭火に対して、汚い言葉が投げつけられたのだろう。それが引用文の一節になったとおもう。

ボクの文庫本には、この日の記述に芭蕉の句が書き込んである:
・薦を着て 誰人います 花のはる   元禄3年(其袋「そのふくろ」)に初出。
(こもをきて たれびといます はなのはる)

「乞食のかっこうをしていても、どんな立派な人かもわからないよね〜」の意味。
西行の撰集抄をふまえて膳所(ぜぜ)で詠んだ歳旦句。京・大津の俳人たちからは揶揄された。
これ以降、京・大津の俳人たちとは距離をおき、蕉風が変化していく。

***
この日の山頭火の句は4つ:
・明けてくる 山の灯の 消えてゆく
(夜が明けて、長崎市街の街灯が消えていくんだね。なかなかいい句かも)
・大海を 汲みあげては 洗ふ(船中)
(おそらく、松ヶ枝ふ頭あたりから船に乗り込んで、現在の野母漁港まで行った)
・まへにうしろに 海見える 草で寝そべる
(野母漁港から脇岬にある観音寺まで歩いた。おそらく最短コースを取ったはず。でもそれは本来の「みさき道」とはズレている。途中、道塚があるが崖下の道は、少しでも波が高くなれば洗われて通れない状態だったと思われる。無事通過して、画像の海水浴場あたりでホッと一息したのではないだろうか。ひょっとしたら、このときに怪我・出血でもして、そのままの格好で拝登したから、まわりからののしられたのかも知れない)
・岩にならんで おべんたうの のこりをひろげる
(場所は特定できないが、十返花は同行していたはず、それと敦之も可能性あり)

岳路「みさき道」の踏査と草刈り整備  2013年4月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

岳路「みさき道」の踏査と草刈り整備  2013年4月

2013年4月7日(日)小雨のち曇り。岳路「みさき道」の踏査と草刈り整備。参加7人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。
三和行政センター前9:20—蚊焼西大道道塚9:43—蚊焼—岳路道塚10:54—黒浜八幡神社12:10(昼食)12:35—尻喰坂峠13:00—以下宿地蔵堂13:34—みさき道本道出合14:25—延命水14:37—高浜15:00(徒歩距離 約10km)

「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施の予定。今回はその第1回。きのうの春の大嵐が集合時間の9時まで小雨まじりで残ったが、午後にはおさまるとの天気予報で実施した
悪天のため参加者は少なかったが、精鋭揃い。草刈り整備ははかどった。岳路「みさき道」は、長一尾の山の稜線を行く「みさき道」本道に対し、長崎半島西回りの「みさき道」。岳路を経由する。なぜか1本だけ岳路に「みさき道」道塚があるため、本会が解明したルート。

蚊焼西大道道塚がその分岐。蚊焼に下り蚊焼大川沿いに進む。国道へ出て松長工業奥へ行き、エホバの家前に出るのが旧道である。岳路海水浴場入口バス停下の電柱のところに岳路道塚はある。電話局アンテナ塔の丘を越し、黒浜ダム手前駐車場へ出て、下の川に下る。黒浜集落内を通り、八幡神社で昼食。

黒浜トンネル手前から、尻喰坂(しっくいさか)の登りにかかる。峠に本会のプレートがある。以下宿の地蔵堂まで急な谷間を下る。砂防ダムの方へ行き、右方の旧道を登ると農道へ出る。三叉路は真ん中へ進む。イバラの原が切れるところから右石垣下を探すと旧道の踏跡があり、竹林先の沢に小さな桁石橋が残る。街道の道を示す貴重な石橋である。

まもなく野母崎ゴルフ場の方から下ってきた「みさき道」本道と合流する。ここも道塚があって良さそうだが、どうしても見当たらない。しばらく行って先は竹の密生で踏査できないので、車道へ上がる。車道を下って行くとすぐ「延命水」の水場に着く。
高浜まで下り、きょうは強風と時間が遅くなるのでここまでとした。堂山峠まで登り、旧野母崎町焼却場尾根道を行き、水仙の里公園に下るコースは、後日また計画したい。

きょう踏査・整備した第1回岳路「みさき道」コースは、ルート図を参照。歩いてもらうと、道が荒れない。第2回は、長崎半島東回り「脇岬村路」の踏査。4月21日(日)午前9時三和行政センター前集合。雨天のときは、28日(日)。折込鋸など持参。

岳路「みさき道」に残る桁石橋  長崎市以下宿町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

岳路「みさき道」に残る桁石橋  長崎市以下宿町

岳路になぜか1本だけ「みさき道」の道塚がある。秋葉山近くの山の稜線を行く「みさき道」本道ではない。蚊焼から別れ、岳路・黒浜・尻喰坂・以下宿経由の「みさき道」があったようだ。私たちはこの道を岳路「みさき道」と呼んでいる。

岳路「みさき道」は、以下宿の南谷を上がり、野母崎ゴルフ場のため付け替えとなっている旧町道三叉路あたりで、「みさき道」本道と合流し、延命水の方へ向かう。
先日、この合流点付近を詳しく草刈りや竹林の切開き調査していて、その手前の沢で桁石橋が見つけた。写真のとおり造りは小さいが、見事な桁石橋である。この道が岳路「みさき道」の街道に間違いないことを証拠だてる石橋である。

もう1本の「みさき道」、長崎半島東回り脇岬村路でも、川原木場公民館先の旧道で、長崎半島では珍しい山中の大きな桁石橋「界橋」(旧川原村・脇岬村の境の意味の橋名)を見つけている。
「界橋」は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3168

岩原川に架かる桁石橋  長崎市玉園町・上町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

岩原川に架かる桁石橋  長崎市玉園町・上町

立山の谷を下り長崎歴史文化博物館の前を通って、桜町へ流れるのが「岩原川」である。近代的な市街地となって、どこを流れているかわからずあまり気付かないが、所在地図のとおり、このあたり一帯に古い桁石橋が残る。
岩原川に架かる①〜③(写真は2枚ずつ)は、古賀文庫「長崎橋梁台帳」に、橋名・架橋年代があると思うが調べていない。

深堀城山中腹に残る横堀の陣地  長崎市大籠町・平山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

深堀城山中腹に残る横堀の陣地  長崎市大籠町・平山町

中世の山城跡「深堀城山」(標高350.4m)のミステリー。前記事により平山町から登った尾根道ピークに、石英の石積み「角石」があることを記した。ここからまだ少し登って行く。
長崎県林業公社植林地となり明確な道は途切れるので、右側の尾根に入るとその途中に、岩面を掘った小規模な横堀(所在図のB)と出会う。これは一体何なんだろうか。

「景観まちづくりトーク&ウォーク 俵石城の縄張り構造と深堀氏」が、2月24日開催された。講師木島先生(九州大学)の配布資料「俵石城縄張り図」によると、深堀城山には山頂近くに8本の畝状堅堀群しか表示されていなかった。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3601

そのため質問したが、善長カトリック墓地下の山中に長さ100mくらいの横堀(所在図のA)を、私は以前から見ている。木島先生へ画像を送ると「写真で見る限りでは、周辺の木の大きさ,断面形状から掘り抜いた道か、水路と考えられる。実際の場所が分からないので、地図等で指示してもらえると助かる」とのことであった。
先生には航空写真地図を送り、話のタネとして再訪の際、確認してもらうようお願いした。

善長墓地下の横堀A(写真1〜2)は、戦時中に掘られたらしいことは、以前から何となく聞いていた。今回、平山側に同じような横堀B(写真3)があることがわかり、はっきりしてきた。
地元平山町の人に聞くと、この横堀は、終戦近く敵アメリカ軍の九州本土侵攻に備えた射撃陣地の壕という。出っ張りが各所にある。昔から攻撃の方向は変らない。
横堀Aと横堀Bが続いているかは、確認していない。いずれにしても、標高が同じくらいの中腹。深堀城山の主な登山道の途中にある。橘湾沿岸の戦争遺跡であろう。書庫はこれに入れる。

深堀城山尾根道ピークに残る石英の石積み  長崎市平山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

深堀城山尾根道ピークに残る石英の石積み  長崎市平山町

長崎市南部、国道499号平山バス停から西側上に、九州電力岳路線12号鉄塔を通って深堀城山(標高350.4m)や善長集落へ登る昔の尾根道が残る。約40分登った標高250mくらいのピークに、この石積みがあった。
縦、横は約1.8m四方。2段重ねで高さ50cmほど。藩境塚でこのような四角の石積みを見ることがあるが、ここは藩や村境でもない。珍しいのは、石のほとんどが石英のかなり大きな厚い平石で積まれていた。

木立がなかったら景観が良いところで、上面が平らなのは座禅石のような感じもする。それとも古い時代の墓かとも考えたが、地元平山町の人に聞くと、ただ「角石」と呼んでいる。ピークへ登りきった尾根道は、ここからちょうどカーブして木立内の平坦な歩きとなる。
たしかに角の地点を示す「角石」に違いないが、昔からの公有林(現在は近くに長崎県林業公社植林地がある)と私有林の境石とも考えられる。

それにしても、見事な石英の石積みである。白さがひときわ目立った。近くで良くこれだけ石を集めたものだ。
深堀城山は、中世の山城跡。山頂を広く囲む石塁が残る。その遺構の一部であったら珍しい。柱状節理の風化したような俵石がある山腹も、この近くである。

長崎市政提案制度の不始末 稲佐山山頂展望台を訪ねた所感

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

長崎市政提案制度の不始末 稲佐山山頂展望台を訪ねた所感

長崎市の観光名所「稲佐山山頂展望台を訪ねた所感」を、昨年12月17日、次のとおりインターネットにより「長崎市市政への提案制度」へ意見・提案した。回答の有無を再三照会するのに、4月となってもまだ回答がない。

稲佐山山頂展望台を訪ねた所感
(提案内容)
長崎の夜景は、2012年10月5日、モナコ、香港と並び世界新三大夜景として認定されました。きのう(12月16日)正午ごろ、稲佐山山頂展望台を訪ねました。県外の観光客も多く、次の点を要望します。
1 世界新三大夜景に認定されたことは、多目的ホールに大パネルがありましたが、屋上の展望所にも、観光客に広く周知する説明板やパネルが必要と思います。モナコ、香港の夜景も載せてください。
2 以前も同じでしたが、屋上展望所周りの景観写真説明に「福田サンセットマリーナ」や「長崎市清掃西工場」がありません。見た人が気になる大施設と思いますから、説明してください。
3 展望所回廊のレストラン手前の壁面絵画は、意味不明な景観にそぐわない作品と感じました。長崎にふさわしい絵画や写真などの作品に変えてください。
4 展望所回廊の途中に、市文化観光部作成の展示パネルがありましたが、日射で退色しみっともないものになっています。恒久的なパネルにするか、定期的な点検がぜひ必要でしょう。

提案内容が昨年、受付されていないわけではない。3月26日稲佐山山頂展望台を再び訪ねて確認した。
1は、申し訳程度に1階エレベータ脇に、モナコ、香港の夜景も載せた小さな説明板が新たに立っていた。要望とは違う。日中に全国から観光客が多い屋上の展望所に、堂々とした大きな説明板を設置してもらいたい。
2は、昨年に景観写真説明をリニューアルしたとき、配慮することではなかったか。国指定史跡「魚見岳台場跡」や長崎開港の先駆けとなった「福田浦」、「三菱重工長崎造船所香焼工場ドック」などの説明もしてもらいたい。
3は、夜景展望台の電飾壁画でもないようである。ひとりがってんの抽象画。どなたの作品か知らないが、公費でこんな作品を展示されたらたまらない。
4は、観光推進課作成のパネル。改善されていたが、もうまた退色している。

「長崎市市政への提案制度」は、「これまで寄せられた主な提案と回答」が公開されている。
掲載基準が明確でない。だれが決めているのか。長崎市にとって都合が悪い意見は排除されている。長崎県は、同じ制度でこのようなことはない。
回答がないのもあるし、なによりも回答が遅い。回答もその場限りの不誠実な内容である。過去の回答も削除される。市長の姿勢が見られない。「職員力」を常々言っていたはずだが。

長崎市広報広聴課は、市政への提案制度と情報公開制度の趣旨を理解していない。不始末な運用をしている。長崎市公式ホームページは、3月29日リニューアルされた。
情報公開条例の担当課へ同日頃、電話で見解を確かめ意見したこともあり、「これまで寄せられた主な提案と回答」は一部改善されたが、「稲佐山山頂展望台を訪ねた所感」の提案は、今もって回答がない。

長崎の古写真考 長崎古写真 大光寺書院

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真 大光寺書院

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI
長崎古写真 ガラススライド写真 Japan Temple of Nagasaki (大光寺書院)

目録番号:3247 長崎大光寺本堂(2)
〔画像解説〕   超高精細画像
大光寺は慶長19年(1614)中紺屋町に創立され、万治3年(1660)に現在地へ移転したという浄土真宗本願寺派の寺院である。本堂は間口9間、奥行き8間の平面に入母屋造りの屋根を架け、正面に向拝1間を置く形式で、その左の唐破風は本堂から続く書院の玄関である。当寺は移転以降、火災等に遇っていないようなので、画面に写る本堂や玄関は創建以来のものが修理を重ねて残されていたようである。現存のものは原爆の被災を受けているというが、その全体の形態はよく継承されており、玄関および本堂に至る石畳の様子や八角形の石鉢に植えられた蘇鉄なども殆どそのままに残されている。但し、画面の本堂前にある石灯籠2基は、現在玄関前に移され、本堂前には大正2年(1913)7月建立の新しい2基が立ち、蘇鉄の背後には多分同じ頃より手水舎が新築されている。上野彦馬の撮影。本堂前の灯籠に寄り掛かる人物(上野彦馬自身か)は髷姿だから、明治初期であろう。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがきのガラススライド写真 3枚目の「Japan Temple of Nagasaki」は、長崎市鍛冶屋町の「大光寺」本堂左側の書院玄関である。
長崎大学データベースに、目録番号:3247「長崎大光寺本堂(2)」の作品がある。書院の方の玄関および本堂に至る石畳の様子や八角形の石鉢に植えられた蘇鉄なども殆どそのままに残され、同じであることがわかるであろう。