小榊の散策 (4) 神ノ島の史跡・風景 長崎市神ノ島町
2009学さるくの江越弘人先生作成資料「神の島から福田まで」などによる神ノ島関係の説明は次のとおり。
「金水温泉跡」は大浜町の町域となるが、網場の脇の近く海岸にあるためこの項に含めた。
写真 1〜 2 神ノ島の埋め立て
神ノ島はもともと文字通りの島で、佐賀藩深堀領であった。対岸の小瀬戸は幕府領で浦上村淵の一部であった。神ノ島と小瀬戸との間の海峡は、長崎と福田方面との大切な航路となっており、江戸時代には、船が通過できるようにしばしば浚渫していたという。
この海峡が何時埋め立てられたのか、長崎の年表や諸書には記載が無く不明である(市立博物館発行『長崎の史跡 北部編』には、昭和42年に埋め立てによって陸続きになった、とある)が、土地の人々の話によると「戦時中、捕虜の人々の手で神ノ島、小瀬戸両方の山を削り埋め立てた。それは昭和16,7年のことである」(小瀬戸の人の話)とか、「自分が小学5,6年生の頃(昭和11,2年ということになる)、朝鮮の人々の手によって埋め立てられた。その人達の宿舎が木鉢や小瀬戸にあった」(神ノ島の人の話)などと様々である。
なお、昭和42年は、長崎外港臨海工業地帯造成の一環として深堀・香焼島間の埋め立てが翌43年に渉って行われているので、神ノ島・小瀬戸間は既に陸地化していたものを、土地を均したり、護岸をしたりして整備したものではないか。
写真 3〜 11 長崎要塞地帯と神ノ島
嘉永4年(1851)に佐賀藩が四郎ケ島に当時最先端の台場を築いたが、この時、対岸の伊王島や地先の神ノ島にも台場を設け、最新式の大砲を設置した。神ノ島の標高78mの山頂で字名を「飛渡」というが、ここにも砲台が設置され、外海の中ノ島・松島の方向に砲口を向けていた。四郎ケ島や伊王島、神ノ島の大砲は、明治維新前後には撤去され、戊辰戦争の時には、佐賀藩の重要な戦力として大活躍をしたという。
なお、明治維新後の長崎の防衛は、大黒町の佐賀藩蔵屋敷前に砲台を設置し、長崎守備砲隊を置いたことに始まる。その後、明治32年に佐世保要塞砲兵連隊の一個大隊が竹の久保に配属され、翌年、近くに(現在の淵中学校)長崎要塞司令部が設置された。
長崎要塞は、長崎港を防衛するのが目的であったから、まず、神ノ島と蔭の尾島に砲台が構築された。神ノ島には、「飛渡」の地に高砲台、島の西南堂の下に低砲台の2つの砲台が設置された。高砲台は28cm榴弾砲8門が港外に砲口を向け、低砲台は、9cm速射カノン砲4門で長崎湾口に砲口が向けられていた。
写真 12〜 22 金水温泉跡
大正7年の福田村郷土誌に紹介されている「金水温泉」は、硫黄分を含んだ鉱泉(冷泉)で、あまりにも不便な所にあったため、収支が償なわず放置され忘れられてしまった。
現在はすぐ側を神ノ島工業団地への道路が通り、ゴミ焼却場の真下を通る「金水トンネル」出口下側の海岸に湯治場はあった。木鉢村の近藤栄次氏が経営していた。
金水温泉跡は、2007年6月記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5433