小榊の散策 (3) 神ノ島の史跡・風景 長崎市神ノ島町
2009学さるくの江越弘人先生作成資料「神の島から福田まで」などによる神ノ島関係の説明は次のとおり。
四郎ケ島台場絵図は佐賀県立図書館の所蔵史料から。最後は4月12日夕方に四郎ケ島沖を出港中の大型客船”CRYSTAL SYMPHONY”
写真 1〜 1 神の島天主堂
神ノ島2丁目の人々は、三重樫山につながる隠れキリシタンであった。元治元年2月12日(1865.3.17)に大浦天主堂で浦上の信徒が信仰を表明したのに続き、一月程遅れて神ノ島から信徒の代表が天主堂を訪れてキリシタンであることを名乗り出た。信仰の自由が許されてから明治9年に仮教会が建ち、フランス人のラゲ神父が赴任し、木造の教会を建立した。
この教会は、白蟻の害で腐朽し、明治30年にジュラン神父の設計によりロマネスク風の煉瓦造り天主堂が建て替えられた。現在の天主堂は、長崎市では大浦天主堂に次いで古く、建築学的にも珍しいものであると言う。
写真 7〜 2 神の島のマリア像
神の島天主堂下にあるドンク岩と呼ばれる岬に、昭和24年(1949)聖フランシスコザべエル渡来400年を記念し、信者の拠出金と労働奉仕によりマリア像は建てられた。この時はコンクリート製で高さ1.7mだったが、潮風の影響で亀裂が生じ、侵食が進んだので、昭和59年(1984)6月に再度、合成樹脂製の高さ4.6mの聖母の白像が再建された。『岬の聖母』と呼ばれ、現在、白亜の教会とともに長崎港のシンボルとなっている。
写真 11〜 3 高鉾島
長崎外港の真ん中に浮かぶ高鉾島は、3つの顔を持っている。1つは、オランダ人が「パーペンベルグ」(殉教者の島)と呼んでいた聖地としての顔である。元和3年(1617)に時津町の鷹島で殉教したナワレト神父とエレナンド神父を匿った2人の宿主が高鉾島で殉教した。その後、西坂での殉教者の多くは、島の周囲の海中に投げ込まれたという。
2つ目の顔は、台場という要塞の島である。文化9年(1812)の高鉾島の台場と大砲(石火矢)の数は、承応2年(1653)築造の古台場には4門、文化6年(1809)築造の新台場に3門、文化9年(1812)の2つの増台場には10門、計17門を備える要塞の島であった。
第3の顔は、交易船保護の島であった。高鉾島の三角形の島影は、北西の風をよく遮っていた。そこで、島の東側海上は外国船一時停泊と定められた場所であった。旧暦9月20日は、オランダ船の出帆の日と定められていたが、出島前から高鉾島前まで来ると、一応出帆したことになって、ここで停泊して遅れた出帆の準備を続けたという。
写真 12〜 4 四郎ケ島台場跡
文化5年(1808)のフェートン号事件で大失態を演じた佐賀藩では、嘉永6年(1853)に藩の総力を挙げて佐賀藩独力で四郎ケ島に最新鋭の台場を完成させた。
工事は神ノ島と四郎ケ島とを繋ぐ約150間(約270m)の堤防造りから始まった。非常な難工事の末、嘉永4年7月に2つの島を繋げると、今度は四郎ケ島を石垣で囲み砲台場を築いた。大砲は佐賀で鋳造し、四郎ケ島に150ポンド砲2門、80ポンド砲8門、36ポンド砲と12ポンド砲を各2門の計14門を備えた。さらに、佐賀藩では神ノ島と伊王島にも台場を築き、合計54門の大砲で長崎港口を押さえたのである。
ちなみに、国指定の史跡で、当時最も装備が整っていた魚見岳の3つの台場には1貫5百目砲2門、1貫目砲5門、8百目砲3門、7百目砲2門、6百目砲1門、5百目砲5門、3百目砲4門の計22門が備えられていた。12ポンド砲が2貫5百目砲とほぼ同じであったから、魚見岳台場が四郎ケ島に比べるといかに玩具のようなちゃちなもので、四郎ケ島台場の大砲が最新式で飛び抜けた威力をもっていたかがよく分る。