長崎要塞神の島砲台の概要 「日本築城史」から
2013年12月4日付朝日新聞長崎地域版【西方見聞録】に、戦時中の長崎要塞神の島砲台の遺構を探ねた記事が載った。現在、神の島公園として整備されているところ。
被爆遺構の案内や平和学習の出前講座に取り組む市民グループ「ピースバトン・ナガサキ」の話をもとにしている。神の島砲台の遺構は、ピースバトンで今年5月、「学さるく平和編」を企画し、市民らと共に一帯を歩いたという。
新聞記事の内容は、少し疑問がある。ピースバトンがどの程度、研究しているかわからないが、堂の下部落の西にあった神の島低砲台の遺構(写真5〜6?)や、蔭の尾島砲台にはふれていない。私も正確に研究したわけではなく、はっきりしたことは言えないが、「長崎要塞地帯標」の所在調査から、長崎要塞について浄法寺朝美氏著「日本築城史」原書房 昭和46年発行を調べたことがある。
同著228〜234頁「13長崎要塞」の記録は、次のとおり。みさき道歩会研究レポート第2集
162〜163頁にも掲載済みなので、今後の研究の参考としてもらいたい。
後ろの写真は、みなと坂団地から見た神の島、神の島公園展望台から見た長崎港口の島々、神の島公園案内図。
(資料3) 浄法寺 朝美著 「日本築城史」 原書房 昭和46年発行
13 長 崎 要 塞 228〜234頁
長崎は安土桃山時代から、内外貿易の要港であった。安政2年(1855)ここに長崎海軍伝習所が創設されて、わが海軍草創の地となり、また同年長崎製鉄所が建設され、これが三菱長崎造船所に発展し、太平洋戦争までに、戦艦武蔵をふくむ99隻の軍艦を戦場に送った重要港湾である。長崎要塞は、長崎における造船所などの重要施設を防御し、また長崎港における、船団への軍隊・軍需品の積載・炭水の補給・艦艇および輸送船団の一時退避、艦船の安全な修理など、直接わが作戦行動を容易にするために、設置されたものである。要塞建設期に、長崎湾口に扼する神の島と蔭の尾島に、それぞれ神の島砲台と蔭の尾島砲台を構築した。長崎要塞司令部は明治33(1900)年4月に設置され、昭和11(1936)年8月、佐世保要塞を合併した。
1)神の島高砲台
神の島(今は小瀬戸と陸続きとなっているが)のほぼ中央、標高78メートルの地に、明治31(1898)年4月着工、同33年3月竣工した。28センチ榴弾砲8門編成の砲台で、首線はNW
78°で、松島方向である。これは長崎港に出入りする船舶の主航路にあたり、射界は360°である。34(1901)年3月、備砲に着手し、同年7月完了した。備砲費は16万100円であった。(略) 上記図を参照
2)神の島低砲台
神の島の西南部、堂の下部落の西約100メートル、海岸線より50メートル、標高18メートルの地に、明治31(1898)年8月着工、同32年7月竣工した、スカ式9センチ速射カノン4門の砲台である。備砲は34(1901)年3月着手し、35年2月に完了した。備砲費は3万8100円であった。首線方向はSE10°で、長崎湾口に向いている。射界は120°である。(略)
3)蔭の尾島砲台
長崎湾口を扼する蔭の尾島の北西端、標高31メートルの地に、明治31(1898)年10月築造に着工し、同32年10月竣工した。東方に標高65メートルの高地があり、この高地の東北端には、長刀鼻灯台がある。川南造船所は南方約500メートルにある。備砲は神の島低砲台と同じくスカ式9センチ速射カノン砲4門である。備砲費は3万8300円であった。首線はNE3°で神の島に向いている。射界は130°である。(略)