「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

   「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (1)

これは、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集60〜66頁に収録した記録をそのまま再掲したものである。平成19年4月発行のため、当時の調査記録である。資料類は一部省略。レポートを参照。
その後の調査で判明した旧時の正道、亀石、傴僂巖などは、関係資料を載せ、後ろの記事により詳しく紹介するので、あらかじめ了承をお願いしたい。

(1)はじめに

公民館講座を多く持つ江越先生の滑石公民館平成17年10月講座資料「山手の古跡をさるく2 烽火山を登る」は、烽火山について次のように記している。
7 烽火山・狼煙台窯跡
烽火山は、長崎市街地を巡る山々の中では最も高く、標高427メートルあり、寛永15年(1638)に山頂に狼煙台を設けられてから『烽火山』と呼ばれるようになった。江戸時代には、山全体が原野であったが、明治時代になって長崎市有林となり、植林が行われ、今日全山樹林に覆われるようになり、その姿を一変させている。
現在、県指定の史跡となっている山頂の狼煙台窯跡は、文化5年(1808)に改築されたもので、外壁の高さ3.6メートル、坑口の直径4.8メートルの円堤である。竈の西側には狼煙用の薪を貯える薪小屋が、東北側には消火用の水溜が設けられていた。また、山頂は竹矢来で取り囲まれ、一般の人々が立ち入ることを禁止していた。
番所は、頂上から西南に5丁(約550メートル)下った所(旧番所)に、文化5年に改築された時には、新番所はさらに約2百メートル下手に造られた。狼煙台までの登路は、現在では相次ぐ災害で荒廃してしまい、全く辿ることが出来ないが、『長崎市史』の記述を簡単に述べて登路復元の資料とする。

(2)烽火山の「長崎市史」記述

「長崎市史」の記述とは、資料3のとおり「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行 昭和42年再刊)の第三章 舊蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項である。
534〜545頁に烽火山に関わるおもしろい記述があり、一気に引き込まれた。

まず、「烽火山十景」においては、「延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑 」である。
市史発行の昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」。染筆狐松は「フデソノマツと稱し」「樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石(長崎奉行牛込忠左衛門の筆である)は淋しげにその位置を守り若樹の成長を待ち顔で」昭和13年頃は存在しながら、この碑石が現在はわからなくなっている。

「登攀道路」においては、「以上記載の道程は松浦陶渓が実測せし順路で当山の大手」である。この文中に記している〔桜馬場—七面山下手で岐路に入り—新番所—旧番所跡—山頂南肩大荷床に上り九十九折で—山頂〕へ行くルートが、江越先生が復元を図りたい「旧時の正道」登路と思われる。
「高サ四尺位刀の如き石が立てられ染筆松(ソメフデマツ)の三字を題」した碑石は、この新番所の手前にかつてあった。「大荷床に近く右手路傍藪間に清泉」もまだ水をたたえてあるのだろうか。

「南畝石」においては、「文化元年九月長崎奉行肥田豊後守手附勘定役として来崎した南畝太田直次郎は翌年此の峯に昇り絶景を賞して一詩を賦した。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看
此の詩は後年山頂西側の巨石に鐫刻せられ今に嚴存す。此の石は何時の頃よりか當地詩客の間に南畝石と名づけられて居る。此の他人面巖 山の東に在り人の顔に似たりとて名を得たり 傴僂巖(カウコウイハ) 山の下にあり などがある」とのことだった。

(3) 旧時の正道と染筆松(ソメフデマツ)碑石・亀石の調査

調査はまだ未済である。昨年来より江越先生から話を聞き、先生をはじめ有志によって一度は踏査したいと思っているが、なかなか実現しないのでまだ何も報告することがない。
「長崎市史」の同項には、資料抜粋では省略したが、松浦陶渓が当時実測した道程と順路が詳しく記述されている。
また、資料2の、長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡 (南部編)」平成14年刊の「165烽火山(所在地:鳴滝3丁目・木場町)」15頁には、当時の烽火山頂へ至る登路が絵図によって描かれ、掲載されている(図右上)ので、大いに参考となる。

(4)南畝石(ナンボイシ)・人面巖((ジンメンイハ)・傴僂巖(カウコウイハ)の調査

「南畝(なんぼ)」大田直次郎は、後年の別号「蜀山人」。長崎奉行所支配勘定役として赴任したのは文化元年(1804)9月(55歳)。翌年烽火山に昇り絶景を賞した。その一詩が
「滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看」
後年、山頂西側の巨石に刻まれ「南畝石」と名づけられてあるという。他に山の東には人の顔に似た「人面巖」、山の下に「傴僂巖」(カウコウイハ せむし・かがむの意)があると記している。

もう200年が経過した。この歌碑は資料10の長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年刊に紹介されていない。本当にまだあるのだろうか、人に尋ねても知らない。1月8日会の七高山めぐりを兼ねた山行が、ちょうど烽火山を通るので探してみた。
見事に山頂かま跡の西側すぐ手前10m位のところにあった。立った大きな岩の上に一円玉ばかりのの賽銭。根元に小さな古い石祠。傍らの木に朝霧山の会「←仏舎利塔方面」の白いプレートが付けられている。この道脇の賽銭を乗せた大きな岩の裏面が歌碑だった。誰も裏にまわらない。そのため誰からも気づかれないで、長年建っていたのだろう。碑は人の背丈、全幅は1m位。刻みの磨耗はあまりない。
流麗な字は読める。詩文の末に「文化二丑年 杏花園」「中村李囿命工鐫焉」とあった。拓本をとりたい歌碑である。「杏花園」とか「中村李囿」の名はどのような人か(後述)調べねばならない。

この日は中尾峠から日見峠へ向かったので、21日妙相寺からまた烽火山に登った。人の顔に似た「人面巖」は山の東とあり、山頂に出る手前50m位の道脇左側に同行の妻がすぐ見つけた。あまり大きな岩でない。手前道角に子人面もあり愛嬌だ。
山の下の「傴僂巖」は、この記述で特定できないが、中尾峠へ向かうため山頂から北に、ロープを掴んで下りきった斜面下にある丸い岩でないだろうか。「亀石」にも似てる。岩はほとんど道脇にある岩に名をつけただろうし、気をつけて探さないとなかなかわからない。

長崎文献社刊「長崎名勝図絵」27頁は、次のとおり記している。南畝の「春日野に…」の歌は烽火山の末尾に載せているが、「南畝石」は記してない。「図絵」は文化、文政年間の執筆であったとされる。
49人面巖 烽火山の東。奇峻にして形ははなはだ怪しと書かれている。
50傴僂巖 烽火山の下。その形からこの名がある。(せむしのことを、長崎では、こうごうという)

以下、次の記事に続く。