「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (3)

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   「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (3)

これは、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集60〜66頁に収録した記録をそのまま再掲したものである。平成19年4月発行のため、当時の調査記録である。資料類は一部省略。レポートを参照。
その後の調査で判明した旧時の正道、亀石、傴僂巖などは、関係資料を載せ、後ろの記事により詳しく紹介するので、あらかじめ了承をお願いしたい。

前の記事から続く。

(8) 長崎市内にある大田南畝のほかの歌碑

再掲となるが、烽火山山頂の歌碑以外、市内にある大田南畝のほかの歌碑は、次のとおりである。資料10の長崎市立博物館「長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年から、そのまま説明を掲げてみよう。関係資料の4〜9も参照。歌碑写真は、私が最近現地で撮影したものである。

6 蜀山人天門山碑(所在地:上西山町19番地 長崎公園内)    4頁
歌碑はもとは一ノ瀬橋のかたわらにあり、「あらそはぬ 風の柳の糸にこそ 堪忍袋 ぬふべかりけり」と刻まれているが、何時の頃かこの地に移されたといわれる。

7 蜀山人歌碑 (所在地:上西山町18番15号 諏訪神社境内)  4頁
歌碑は、平成2年(1990)諸谷義武等によって建立され、「彦山の 上から出る 月はよか こげん月は えっとなかばい」が刻まれている。
大田蜀山人(1749〜1823)は、江戸牛込に生まれた。本名を覃、通称直次郎といい、蜀山人は狂歌名である。蜀山人は、狂歌や狂詩、洒落本、黄表紙、随筆など多方面にわたって活躍する一方で学問吟味に首席及第して支配勘定に躍進、大阪、長崎などに転任した。長崎では、奉行支配勘定方などに従事するとともに、各地を見聞して、その情感を詠じている。

93 大田南畝七面山詩碑(所在地:鳴滝2丁目19番地)     89頁
文久2年(1862)宇野霞峰等が建立した。大田南畝(1749〜1823)は、通称直次郎、名は覃。御徒大田正智の子で、青年期は狂歌師や黄表紙の作家として活躍した。支配勘定に躍進、文化元年(1804)長崎奉行所に出役、約1年間長崎に滞在した。南畝の墓が日蓮宗の本念寺(東京都文京区白山)にあるように、南畝は日蓮宗の熱心な信者であったので、七面山の参道沿にこの碑は建てられた。
(注)どじょう会「長崎の碑 第五集」によると、詩文は次のとおり
披楱踰嶺踏烟雲 七面山高海色分 一自征韓傳奏捷 至今猶奉将軍   大田 覃

(9)長崎談叢第九十輯所収 新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」の記述

歌碑の「文化二丑年 杏花園」は大田南畝の別号。「中村李囿命工鐫焉」は、何となく読んだ長崎県高等学校教育研究会国語部会編「長崎の文学」昭和47年の114頁の中に「二月四日は、中村杏園(長崎の商人で歌人)たちと花見に出掛けた…中村杏園は春の磯の香を漂わせて、さざえのつぼ焼に酒まで用意して来ていた」とあった。中村の同一人と思われるが、南畝の「杏花園」と同じような「杏園」と出てき、歌碑刻字がよく判読できないため、少し混乱しかかっていた。「鐫」は「セン のみ ほ・る」の意。「中村杏園」は歌碑上からも「中村李囿」が正しいと思われる。

そんな折、3月12日、宮川先生から電話をいただき、長崎史談会の事務局を訪れた。海星高校の先生である新名規明氏が長年、大田南畝を詳しく研究されており、見せていただいたのが、平成14年5月発行の「長崎談叢 第九十輯」。この中の57〜79頁に同先生の稿「大田南畝の長崎(四)」が掲載されており、烽火山の歌碑にふれられた記述があったので、資料11に関係部分を載せた。前3輯から続いた最終回。宮川先生もこれを読み、烽火山に歌碑があることをお知りになったそうである。
「中村李囿」とは、長崎に於ける豪商の一人中村作五郎、朝夕岩原官舎の所用を承る。李囿と号し風雅な人でもあり、特に南畝の事は何くれとなく世話をした。江戸へ帰ってからも、親交が深かった。
彼が烽火山、七面山、金毘羅山、彦山、愛宕山など七高山に詩碑の建てようとしたが、実現されたのは、烽火山と七面山のものであろうと、双方の往復書簡から推測されている。
大田南畝の長崎に関わる生涯と、残された歌碑についてすばらしい調査と研究であった

(10) 終わりに

昭和13年発行「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」烽火山御番所の記述から始まった烽火山の昔をたどる探訪は、旧時の正道探しなどはまだ行ってなく、とりとめのない報告に終った。しかし、烽火山の山頂広場に、貴重な史跡となる大田南畝(蜀山人)の歌碑があることがわかり、ほかの歌碑と作品を私なりにまとめて紹介でき、彼の長崎での生活ぶりと人となりは、少しは理解されたと思う。
たいていの人が烽火山の歌碑の存在を知らない。長崎の史跡案内や歌碑紹介の刊行本にも、ほとんど記述されていないのが現状で、もったいなく思われる。今になって感じるのは、南畝石がかえって門外漢の私を呼んだような気がしている。

烽火山へは、西山木場から木場峠に車で上る。チェーンがある中尾峠方面へ行く林道に入り、その途中から別れて、平坦な山道の尾根歩きをすると、約30分で山頂に立てる。最後にやや急な登りとなるが、ロープが張られそんなにきつい行程でない。中尾峠との分岐には立派な指導標がある。山頂から長崎港と市街の眺望は素晴しい。壮大な詩文を景観と味わい、かま跡も見てもらいたい。
市文化振興課へのお願いしたいのは、歌碑の保存はもとより、周辺を整備して碑の存在がわかるようにし、「かま跡」と同じような説明板を設けてもらえないかということである。
歌碑は、長崎公園、諏訪神社、鳴滝2丁目、烽火山頂の順。烽火山地図は「新版 長崎県の山歩き」から。