烽火山十景の「龜石」は、山頂の南畝石すぐ近くにあった

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烽火山十景の「龜石」は、山頂の南畝石すぐ近くにあった

「長崎市史」の烽火山の記述は、次のとおり。「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行 昭和42年再刊)の第三章 舊蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項である。
534〜545頁に烽火山に関わるおもしろい記述がある。

「烽火山十景」については、「延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑 」である。
市史発行の昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」。染筆狐松は「フデソノマツと稱し」「樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石(長崎奉行牛込忠左衛門の筆である)は淋しげにその位置を守り若樹の成長を待ち顔で」、昭和13年頃は存在していたように記している。

染筆狐松は、「フデソノマツと稱し」「樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石(長崎奉行牛込忠左衛門の筆である)」とある。所在場所は、現在の登山ルートではなく、「登攀道路」の項で、鳴滝から大荷床へ上がる烽火山旧時の正道(旧番所や新番所があった「番所道」)を登る。新番所前の長崎港を正面に見下す位置に「高サ四尺位刀の如き石が立てられ、染筆松の三字を題す」となっているが、付近一帯をいくら探しても、この碑石はわからなかった

さて、飲澗龜石の「龜石」の方である。市史発行の昭和13年当時、すでに「此の内で龜石の所在が判らない」と、はっきり書いている。何のことはない。かま跡がある烽火山山頂広場の大田南畝の歌碑「南畝石」すぐ近くに、まったく大きな亀の形をした石を見つけた。
研究レポート第3集を発行した平成19年4月直後のこと。烽火山山頂広場から健山の方へ下り、「南畝石」の方を振り返った。見上げると、写真のとおりの大石があった。

正に亀が首と口を上に持ち上げ、飲澗の格好をしている。「龜石」に間違いないだろうと、判断した。昔から有名となる石は、深い山中にあるのではなく、通常の道筋で見かける石だろう。長崎市史が「所在が判らない」としたのは、著者の調査が行き届かなかったためか。
「龜石」は、烽火山山頂のすぐ直下にある。登山するとき気をつけて見てもらいたい。本会の説明プレートを、「南畝石」「人面巌」とともにつけておいた。

その後、平成23年3月、宮さんが風頭山山頂広場で、晧台寺の「晧境目」と、自然岩の面に刻むのを見つけている。烽火山の「龜石」近くにも、苔むした石面の下に何か字が彫ってあるという。
5月の例会のとき、みんなで確認したが、「多久志満?」のような刻み。「龜石」とは関係ないようである。別の石には、「1919」の年号も見かけた。