「烽火山番所道を登る」 江越先生作成資料  2009年5月

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「烽火山番所道を登る」 江越先生作成資料  2009年5月

『白帆注進』などの著者江越弘人先生の、永年の懸案であった「烽火山番所道」(「長崎市史」に記録がある鳴滝から新番所跡と旧番所跡を通り大荷床へ登る旧時の正道)は、私たちと踏査の上、歩けるよう整備して復活した。
平成19年5月21日(日)に「烽火山番所道を登る」催しを開催した。長崎新聞により広報し、参加者は50人以上だった。これはそのときの参加者配布用資料である。
写真は当日の催しのではない。番所道の状況がわかるよう、直近の日撮影などを載せている。その後、学さるく行事でも2回実施した。

烽火山と番所道
烽火山に狼煙台が設置されたのは寛永15年(1638)のことであった。島原の乱を鎮めた老中松平伊豆守信綱は、乱後長崎に立ち寄り、野母の権現山に遠見番所を、そうして長崎村の斧山に狼煙台を設置するように命じた。そこで、斧山に烽火台が設置され、以後この山を烽火山とよぶようになった。
「野母の遠見番所で異船を発見すると、その合図の信号は小瀬戸から十人町、永昌寺と各遠見番所をリレーされ、長崎奉行に報告された。さらに、近隣の諸藩に応援を求める際は、烽火台から烽火を揚げたが、烽火は琴尾岳(長与町・諫早市多良見)、烽火山(諫早市高来)とリレーされた。番所は山頂付近にあり、烽火詰と呼ばれた遠見番が詰めた他、人夫の徴発や薪等の保管等は長崎村庄屋森田家が当たった。烽火台(県・史跡)は円形で、外壁は高さ2間、深さ3間で、坑の直径は2間4尺、その縁は石灰で塗り固められ、外壁の下部に3ヶ所の火入口があった。烽火台の周囲は、竹矢来で囲まれ、内部への立入りは厳しく禁止されていた。」(長崎の史跡 南部編 長崎市立博物館)
※ この説明は、元禄元年(1688)に小瀬戸遠見番所が設置されてからのものである。

今日、烽火山狼煙台へ登るには、片渕中学校前から焼山の中腹を通るか、あるいは仏舎利塔から健山を越えて片渕中学校からの道と合流し、尾根伝いに登る道が一つある。そのほか、七面山妙光寺本堂背後から登る道、東側の妙相寺から秋葉山を経て登る道、蛍茶屋から武功山を伝って登る道、さらに木場峠から縦走してくる道など、いろいろな道があり、烽火山は多くの市民から親しまれている。
ところで、江戸時代、烽火山の狼煙台を守る人々は、どの道を使っていたのであろうか。この登路については、長崎市史に文化年中(1804〜17)に調べた松浦東渓の説明と著者の福田忠昭の説明とが載せてある。そこで福田氏の説明を簡単に紹介してみよう。

烽火山番所道
「烽火山に登る道は幾つかあるが、その一つに、旧時の正道で桜馬場から登る道がある。桜馬場町(旧長崎街道)の旧二本杉の所から頂上まで十五丁(約1.5キロ)。まず、鳴滝まで1丁余り(約百メートル)、ここから右が武功山道、左が城の古址道、本道はシーボルト宅跡や長崎中学校体操場(鳴滝高校運動場)を過ぎ、七面山妙光寺下手から岐路に入る。
ここから急な坂道で、二丁ばかり(2百メートルほど)文化年間に新たに開かれた道を登る。道はいよいよ険しく、左右雑木に覆われ、番所谷とはこの辺りである。さらに2丁ばかりでやや平坦地に達する。ここに高さ四尺ばかりの刀のような石が立てられ『染筆松』と刻んでいる。長崎奉行牛込忠左衛門の筆である(※この石は現在見当たらない)。碑の前面上手が新番所の地で、長崎港を正面に見下ろす位置にある。
さらに2丁ばかりの上手が旧番所跡である。旧番所から植林の中を登ると大荷床の近くに泉がある(今では水は出ていない)。旧番所に用いた泉である。泉を過ぎる数十歩で大荷床で、昔烽火用の薪が積まれていた。巡見の長崎奉行はここに床几を置き小休の場とした。
ここから東に下れば秋葉山で、南に進めば狗走である。大荷床から頂上まで3町余り(三百メートル余り)で、長崎港の正面に付けられた九九折の道は文化5年(1806)につけられたものである。大荷床から直上するのは旧道であるが、近頃却って復活している。」

南 畝 石
江戸時代一世を風靡した文人大田南畝は、文化元年(1804)に長崎奉行所の勘定役として赴任した。翌2年に烽火山に登り、絶景を賞して一詩を作った。
「滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看」
この詩は、山頂西側にあり、南畝石と呼ばれている。烽火山にはこの他、人面岩・傴僂巖(山の下)と呼ばれる岩がある。

烽火山の歴史と終焉
寛永15年(1638) 斧山に狼煙台を設置する。番所には近郷の百姓が2人づつ勤番した。
正保 4年(1647) ポルトガル船2隻来航する。狼煙が焚かれ諸藩の兵士が集合する。
万治 2年(1659) 勤番役に、地役人の遠見番が担当するようになった。
延宝 4年(1676) 長崎代官支配から長崎奉行管下に入る。(末次氏改易により)
延宝 6年(1678) 長崎奉行牛込忠左衛門、烽火山十景を詠った。
この時、「染筆松」の碑が建てられた。(福田氏が確認しているが、現在見当たらない)
元禄 元年(1688) 登山口(鳴滝高校運動場付近)に制札が建てられた。
明和 元年(1764) 烽火山勤番を廃止する。(烽火台は存続)
文化 5年(1808) フェートン号事件で、番所を再建し、勤番を復活させた。
文化 6年(1809) 狼煙を揚げて、非常事態の予行練習を行った。
文化12年(1815) 烽火山勤番を廃止し、番所を取り崩した。
番所道は毎年2回3ケ村(長崎村、浦上村山里・淵)から道の改修に当っていたが、その後完全に見捨てられてしまった。
平成19年(2007) 192年振りで番所道が通れるようになった。

七高山巡りと烽火山
江戸時代には、正月の行事に1日かけて七高山参り(巡り)を行うことが盛んであった。今日でも、中高年の健康ブームで昔に増して七高山巡りが行われるようになった。
今日、烽火山も七高山の一つとして必ず頂上が踏まれている。しかし、昔の書物を見ると烽火山が、七つの高山に入れられていないものと入っているものとがある。
(関係資料は掲載略)
考察 このような混乱があるのは、狼煙台付近が立入り禁止になっていた時代には、烽火山は七高山参りから外されていたためではないだろうか。