烽 火 山  長崎新聞コラム「水や空」から

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烽 火 山  長崎新聞コラム「水や空」から

2007年5月31日付、長崎新聞コラム「水や空」の記事は、次のとおり。21日(日)開催した「烽火山番所道を登る」催しに、長崎新聞社の文化部長が同行された。

烽 火 山 (2007年5月31日付)

長崎市東部の烽火山(標高426・2メートル)に登った。江戸時代に異国船入港を知らせた烽火台跡を訪ねる歴史散歩。大水害などで荒れ放題だった本来の登り道が復活し、企画された▲道筋は「長崎市史」にのっとり郷土史家・江越弘人さん、らが跡付けた。鳴滝から七面山妙光寺下を経る道のり。「道はいよいよ険しく、左右雑木に覆われ、番所谷とはこの辺りである−」などと市史にあるように、急坂で滑りやすく難儀した▲張り番の詰め所・新旧の番所跡や薪(まき)置き場の大荷床で説明を聞き、峠を越えて秋葉山で昼食。再び頂上を目指した。約3時間の登山。釜状に築かれた烽火台の大きさに驚いた。高さ約3・6メートル、直径約5メートル。さぞかし大量の薪を必要としたことだろう▲文人・大田南畝(なんぽ)(蜀山人)の詩碑が忘れられたように建っている。高さ約1メートル、横1メートル弱、厚さ約50センチの自然石。「滄海春雲」などとうたい起こし「西連五島東天艸 烽火山頭極目看」と四囲の絶景をたたえる。南畝もここに立ったのだ▲長崎奉行所勘定役として1804(文化元)年に赴任。翌年の建立。刻まれた文字を指でなぞり、思いをはせる。「廃虚に立つと何時も胸疼くのを感じる−。廃虚にはそこに住んだ人間臭と人生とが残っている」(遠藤周作「狐狸庵 歴史の夜話」)▲南畝も同じようになぞったのではないか? 往時の人々と感応し、歴史に身を委ねる安らぎに浸った烽火山行だった。(成)