長崎の古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

このデータベースには、本年6月に長崎関係には300点以上が追加された。新しく目にする古写真が多く、調査不完全なまま収録されている。これまでと同様、気付いたものを順次、現地調査して報告したい。

目録番号:6272 海から見た大浦居留地

(関係写真)
目録番号:1022 出島からの大浦居留地
〔画像解説〕
1871年(明治4)8月16日付、横浜の写真貼り付け英字新聞”The Far East”に掲載された長崎港の写真。キャプションにはNAGASAKI,FROM THE DUTCH CONSULATE(オランダ領事館からの長崎)とある。出島の海岸通りに面した2,3番地のオランダ領事館付近から、大浦・下り松・浪の平にかけての洋館群を撮影。写真から出島前面の海岸は中島川の運ぶ土砂で干潟化していたことが判る。長崎港の入り口方面には、沖合での停泊を余儀なくされた大型船舶が多数写されている。この状態を改善するために、中島川の変流工事が提案された。慶応3年(1867)に造成された、出島・海岸通りの護岸の石積み欄干が写真の手前に写っている。大浦天主堂は改修前であったが、両脇の尖塔部分は台風によりすでに失われている。海岸に突き出した黒っぽい建物は、梅香崎の外務局運上所(税関)、南山手の「ヨンゴ松」横の洋館はグラバー邸である。

目録番号:5865 出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地を望む

■ 確認結果

目録番号:6272「海から見た大浦居留地」は、撮影した場所がわからないためこのようなタイトルにしたか、それとも船上から撮影したと判断したのだろうか。
以下のコレクション説明にあるとおり、誕生間もない写真術で、揺れる船上から撮影はできただろうか。一方、海から見たとしながら、同コレクション・アルバムの中では、「長崎のパノラマ」とし、丸尾岸壁(昔は大鳥崎があった)から写した現在の写真を対比させている。

それが古写真の下段に載せた横長の写真。もちろん「※現在の写真の視点および注視点について、なるべく当時の撮影に従っていますが、諸事情により完全には一致していません」のことわり書きはある。
一見似ているが、背景の山をよく見てみる。古写真は鍋冠山の裾と奥には星取山がなければならないのに、星取山と唐八景を写している。

古写真の光景は、水辺の森公園で大浦天主堂を眺めた際に、同じようになるのを思い出すだろう。船上でないとして、線を引き伸ばしてみる。
明治26年、稲佐お栄がホテルヴェスナーを開業することとなる旭町「稲佐崎」や、現在の旭大橋たもと「志賀の波止」が考えられる。ここからも現在の写真が撮れないので、旭大橋の高い位置からと目線を落とし稲佐崎近く旭町岸壁から大浦海岸と山を写してみた。
大浦天主堂が実際、近くに見えるのである。水辺の森公園と丸尾岸壁から撮影した場合の参考写真も掲げた。しかし、鍋冠山の麓に写る大浦天主堂の位置がどこも合わなかった。

記事掲載後、「ほしなべ」氏のコメントにより確証的なヒントを得た。すなわち港の対岸稲佐方面でなく、「出島の西端」から撮影されたのではないか。
末尾に3枚の写真を追加した。目録番号:1022「出島からの大浦居留地」と目録番号:5865「出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地を望む」。古写真左側が、鍋冠山の麓に大浦天主堂を同じような位置に写している。
撮影場所はこの「出島の商館長邸横の日本庭園から」ではないだろうか。
現在の状況は、出島に代わり鍋冠山がビルの上にかろうじて確認できる水辺のプロムナード「東山手橋」方面から望む写真を掲げてみた。(この部分は、7月15日追記)

日本古写真アルバム ボードイン・コレクション

ボードイン・コレクションは、養生所(のち精得館と改称。長崎大学医学部の前身)の第2代教頭であるオランダ人、アントニウス・ボードインが、弟アルベルト・ボードイン(出島商人、オランダ領事)と協力し、日本滞在中に撮影および収集した古写真のアルバムです。

在日期間中(1862-1866,1867,1869-1870)、ボードインは、長崎のみならず大坂医学校(大阪大学医学部の前身)、大学東校(東京大学医学部の前身)でも医学を講義し、上野の森を公園にするよう進言したことでも知られています。
その一方で、誕生間もない写真術にも興味をもち、長崎の街の様子や人物などを自ら撮影するとともに、日本の写真を収集し、特別な装幀を施したアルバムも作成していました。
1980年代後半、日本の新聞社によって広く紹介され、その後の古写真ブームの火付け役となったコレクションです。