福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (2)

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福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (2)

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」の発見経過。(1)(3)の記事とも参照。

高橋輝吉氏稿  神崎の大島灯台下は、「第五号外方100(米)以内」

流人の島、要塞の島が平和な島に。私が思うに昔は、東郷駅近くまで海だったのかなー。満潮時には、潮が上がって来てました。現在は広い、広い田園地帯です。島には農地少なく、出稼ぎの時代もあったが、今は漁の通り道なのか、多くの釣人たちです。

「日露」戦いの後、軍部は重要な島々に、目を向け初めた。「壱岐」、「対馬」はもとより、「下関」一帯の島々にも。大正、昭和になってからは、大島、小呂島にも全部が要塞地となり、砲台、軍事地帯となり(宗像大社は別)、証しとして、砲台、標柱はどこに。
小さい杭柱を、何となく写真に撮った。此れが「ヒント」になった。「←蓋井島」と「←蓋之島」と、印しのある有名な石で、何かを示している。

島の中に要塞地帯を示す石が、灯台より下、海側に有った。下関要塞第一区地帯標「第五号」です。他はどこに。船で2回、右廻り、左廻りにて、「第二号」、「第三号」、「第八号」を発見。
「第一号」は、浅瀬に有ったと、船頭さんの話。島の方には、軍事の地図なし、語りのみ。島の一角、加代に、「流人の生活跡」と示す立札が有った。