長崎の古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。

写真集60〜62頁「海上からの出島パノラマ組写真」は、データベース目録番号:6075〜6077の3枚組写真。解説文中に撮影場所の説明はないが、タイトルに「海上から見た出島」としている。当時の写真機と写真術で船上から撮影できただろうか。なにも海上からではなく、大浦海岸通りの梅香崎側に突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)があり、そこから撮影できたと思われると、私の考えを述べていた。
https://misakimichi.com/archives/2177

ところで、この記事に関し長崎大学データベースにある別の次の作品について、問い合わせをもらった。 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

「この写真は明らかに海上と考えられます。これは撮影地点と出島の間に干潟があるのを見ると、船の舳先を干潟の中に漕ぎ入れて固定すれば、ブレも少なく撮影できるのではないでしょうか。場所と方法を考えれば、当時でも(船上からの撮影は)不可能ではないと思われます。大きな写真は朝日新聞社刊「甦る幕末」のp14、p15に掲載されています」ということである。

目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」は、ボードインコレクションにある1863年(文久3年)撮影とされる古写真で撮影者未詳。私がこの写真を見て疑問に思うのは、不自然に合わされた2枚の組写真である。その上、外国の大型船が損傷や時間を惜しまず、干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのだろうか。そうしていたら、もっとましな出島全景の写真が多く残っていてよいはずである。

背景の山並みは、現在の国指定史跡「出島和蘭商館跡」の南側、電車通りを挟んだ出島パーキング5階から確認した。右端の写真に写る山は、風頭山の奥に彦山。左端の写真に写る山は、稲佐山の立岩尾根だろう。出島の扇形を示すため、折れ曲がった写真とし、中間の山、烽火山・金比羅山は中抜きか、遠いためはっきり写らなかったと思われる。

出島の建物について見てみよう。出島左端に写る離れた1棟の黒い建物。神戸市立博物館所蔵の写真が大きくてわかりやすい。この建物が真横から見える梅香崎橋寄りの所から左の写真は撮影されたから、稲佐山の立岩尾根が背景に写ったのではないか。
次に場所を変えて、大浦海岸通りの突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)先端へ行って右側の写真を撮影した。そのため、風頭山と彦山が背景に写ったと思われる。

1863年(文久3年)梅香崎の海面が埋め立てられ、外国人居留地にすでに編入されている。それぞれの撮影場所は、「長崎港精図」に赤線で示した。この2枚を組み合わせれば、いかにも出島の形をした合成写真ができたと思われる。
実際、出島を写したこの写真と同じような構図の写真がある。それが、目録番号:3859「梅香崎洋館群と出島(1)」。ただ高度が違う。手前左側の洋館は「長崎郵便局」と解説している。これをもっても、梅香崎付近の海岸通りから同じような出島の写真が撮影できたのではないか。

目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」の古写真で、あと少し見逃している点があろう。つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。船繋石、通りの縁石、洋館の煙突とも考えられる。左の写真には続いて道路の縁石か屋根みたいなものが下部に写る。
最左端の黒ずみも、写真の汚損ではなく、通りの街路樹、街灯か洋館テラスの柱など考えられる。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないだろうか。
以上、私の一般的な疑問を参考までに説明した。朝日新聞社刊「甦る幕末」の14,15頁がどのように解説されているかは知らない。あとは専門的な研究をお願いしたい。