長崎の古写真考 目録番号:4802 中島川と万橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4802 中島川と万橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4802 中島川と万橋
〔画像解説〕
万橋奥の山は健山(たてやま)、その右側は烽火山である。烽火山は江戸時代、長崎に緊急事態が発生したことを知らせる「のろし」をあげた山である。写真右側の家並みの所は現賑橋-西浜町間の電車通りである。万橋は延宝6年(1678)に、旧町名の築町-万屋町間に京都の人が贖罪(しょくざい)のため架設した長さ18m、幅6mのアーチ石橋である。享和元年(1801)再架、大正4年(1915)9月に橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替え、さらに近年鉄筋コンクリート橋に新架された。最初、万屋町は鍛冶職人が多く居住していたので、鍛冶屋町といった。町が大きくなり、寛文12年(1672)に今鍛冶屋町(現鍛冶屋町)と本鍛冶屋町に分かれ、鍛冶職人の多くが今鍛冶屋に移ったので、本鍛冶屋町は延宝6年(1678)万屋町と改めた。万屋町の「おくんち」傘鉾のたれは「タイ,伊勢エビ,タコ」等の魚づくしで、長崎刺繍の代表的な作品の一つになっている。

目録番号:5881 中島川河口(2)  同作品 目録番号:4301(1)

■ 確認結果

万(よろず)橋は、浜市アーケード商店街通りの入口にある鉄橋のすぐ上流に架かる橋である。
目録番号:4802「中島川と万橋」は、橋が中島川に対して少し斜めに架かり、中島川上流が少し蛇行して曲り、背景の山々の姿と位置から「万橋」に間違いないだろう。
長崎大学の古写真データベース上は別に問題ないが、なぜ、この作品を取り上げたか。

「万橋」が大正4年(1915)9月に橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替える前の、アーチ式石橋の貴重な姿が撮影されているからである。現在、現地へ行っても、何の説明板がない。
そして、次の目録番号:5881「中島川河口(2)」は、下流の「長久橋」と考えられるが、これと同じような古写真が「万橋」として、間違われて使用されていると思われるからである。
次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2159

長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに出てくる古写真がそれ。
http://nagasaki.n-grit.com/   川に浮かぶ船の数が違う。同会のは写真出所が明らかでないが、次のとおりこの写真を「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。

浜の町の入口?
鉄橋から万橋を望む。昔から長崎で一番歩行者の通行量の多いところ。写真の時代も鉄橋の賑わいはそうとうなものだったに違いない。今の風景にかさねて想像すると楽しい。右は浜市アーケード入口へ、路面電車も走っている。左は仕事帰りの人が立ち並ぶ中央橋のバス停。
今も昔もかわらないのは遠くに見える山の稜線。金比羅山と健山の間にかすかに帆場岳(三つ山)が見える。

中島川石橋群を守り、清掃活動や中島川まつりを開催している中心的な団体である。再掲となって恐縮だが、会の方で古写真がどの橋かはっきりした確認をしてもらい、ウェブサイトには「万橋」の正しい古写真を掲載し広報してもらいたい。