朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

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朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎の対岸稲佐崎の入り江に停泊する弁才船(奥)とイサバ船(手前)。丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所。
ベアト撮影、1864年ごろ、鶏卵紙、28.7×23.8

〔解説記事 186P〕  稲佐の和船

1864年ごろ、イギリス人写真家フェリクス・ベアトが稲佐海岸で撮影した江戸時代の和船の写真です(写真81)。
ベアトは横浜で開業した腕利きの旅行写真家で、上野彦馬にも影響を与えました。暗箱と呼ばれていた当時のカメラは今よりもずっと大きく、レンズの焦点距離も長かったので、写真の精度は抜群でした。現在の稲佐の三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町商店街付近を撮っています。この入り江は埋め立てられて今は面影がありません。
このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります。
大きなほうの船は千石船または弁才船で、米を千石(約150トン)運べました。長さは約23メートル。船底が平らで船の骨組みとなる龍骨がなく、1本の帆柱に横帆とシンプルでしたので、洋式帆船のように帆柱に登る必要がありませんでした。スピードは速く、経済的だったため各地を回航した菱垣廻船や北前船などに使われました。シーボルトも『日本』でこの船の構造を図解しています。屋根を持つ手前の小さな船はイサバ船と呼ばれた近海用の魚や物資の輸送船です。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:1276「和船(3)」 撮影者:F.ベアト 撮影地域:長崎 年代:1864 の古写真。同解説は次のとおり。
台紙に Group of Japanese Junk and boat in the Canal とある。向こう岸にもやっている和船はかなり大型である。ここは運河というより入江みたいなところであろう。人々の生活のにおいがする。

私の以前の記事は、次を参照。この古写真の撮影場所は不詳とされていたが、背景は浜平上の日昇館あたりの山。当時、波止場があった丸尾山の丸尾公園西角から旭町(「朝日町」は誤)商店街後ろの稲佐崎方面を写したものである。
この入り江は舟津浦や江の浦と呼ばれ、平戸小屋町の町名も残るとおり平戸藩屋敷があり、昔から栄えた浦。長崎港内でも台風を避けられた。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654

朝日選書117P写真「47 和船と稲佐崎」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5310「稲佐海岸」)の作品は、すでに前に述べた。
https://misakimichi.com/archives/2143
そのとき、この朝日選書188P写真「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」(目録番号:1276「和船(3)」)は、丸尾山の波止場から稲佐崎方面を左向きに変えた作品と説明している。

今回、この古写真の解説記事で、新たに「丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所」「このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります」と説明が加わった。
「ロシア人の止宿所」となった場所は、現地確認がないようで、少々誤認があると思われる。
旭大橋の入口に長崎日ロ協会が設置した「幕末・明治のいわゆるロシア村」の説明板がある。ロシア村の場所は、稲佐崎の先端から裏手志賀の波止を向いた高台一帯である。

「47 和船と稲佐崎」の説明では、ロシア村への登り口が右方にもあり説明は少し合うが、「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」では、この古写真の右写真外高台となり、写真にはほとんど写っていない。当時の高台への道と現在の住宅地図を掲げる。別の坂道なのである。
旭町商店街の手前から言うと、47の右の坂道は馬渡歯科医院が登り口。上のマンション「カネハレジデンス旭町」が稲佐崎の「ホテル・ヴェスナー」跡である。81は商店街通りをまだ行って黄金橋手前、ビューティサロンあさひ角を右へ入った道の坂道となる。

したがって、この古写真に写っている「丘上の日本家屋」は、「ロシア人の止宿所」となった一帯ではなく、舟津浦の昔から栄えた集落の高台である。奥へ行くと現在、山野辺邸と共立病院、萬福寺、旭保育園、悟真寺がある。
旭大橋入口の「幕末・明治のいわゆるロシア村」説明板は、この古写真を取り上げていない。
付近の詳しくは、「稲佐風土記」著、長崎日ロ協会の会長松竹先生へ確認をお願いしたい。