朝日選書 172P写真 73 大村湾口の時津村
長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。
朝日選書 172P写真 73 大村湾口の時津村
明治中期の長崎郊外、大村湾奥の時津村の家並み。大村からの海路の長崎口で、ニ十六聖人もここから上陸した。遠景は塩田。
撮影者不詳、1886年bごろ、鶏卵紙、25.8×19.0、手彩色
〔解説記事 167P〕 塩づくりの村だった時津村
1886年ごろに撮影された時津村(現在の時津町)です(写真73)。中ほどに見える瓦屋根が浦郷にある市場付近の町屋です。手前の農家と思われる藁ぶき屋根の集落とは対照的です。
浦郷はかつて大村湾の鮮魚が揚がる市場でした。また、長崎へ向かう旅人の重要な港口でもありましたた。大村から船で時津に上陸すると、諫早経由の長崎街道より1日節約できました。
1597年、のちにカトリックで聖人に列せられることになる26人のキリシタン殉教者も、東彼杵町から船に乗せられ、大村湾奥のこの港に上陸しました。
家並みの奥の大きな木が2本立つ場所は、1640年に建立された村社の八幡神社です。入り口にある「ともづな石」は船の係留に使われたもので、浦郷が江戸時代に波止場だったことを伝えています。
神社の後方が浜田郷で、海岸伝いに塩田が見えます。塩づくりは農業とともに時津の重要な産業でした。江戸末期には総戸数852軒のうち113軒が塩づくりに従事し、時津全体で年間4720俵、約4万2480キロの塩がとれたといわれています。
明治の終わりに塩田は田畑に変わり、海岸は埋め立てられ、今では工場や学校、住宅地に姿を変えました。最近の時津は、長崎の衛星都市として人口が増えてきました。
■確認結果
幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5653「時津の家並み」の古写真。同解説は次のとおり。
大村湾に接する西彼杵郡時津村とその港。手前は密集した浦郷で、港の入り江を挟んで対岸は崎野の海岸から人家に至る。大村との往還にはこの港が頻繁に利用された。背後の丘陵地は、長与の岡郷、嬉里郷に続く一帯で、後方の高い山は、琴ノ尾岳。
朝日選書の172P写真は、タイトルが「73 大村湾口の時津村」とあるが、「大村湾奥」が適当ではないか。
写真下の解説図でも、後方の高い山は「琴ノ尾岳」ではない。左上鞍部のところが山頂アンテナ塔がある「琴ノ尾岳」から尾根が下った「扇塚峠」。写真に写っている右の高い山は「仙吾岳」(標高375.6m)と丸田岳方面となる。
私の以前の記事は次を参照。この古写真の撮影場所は、国道交差点から時津川の西岸へ現在の「新地橋」を渡る。長与町立長与図書館の上手の高台、戦没者や原爆死没者の慰霊碑のある公園と思われる。宝永5年(1628)から浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られている。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48654714.ht
https://misakimichi.com/archives/1837
江戸時代、時津村は大村藩領。時津港は彼杵港(現・東彼杵町)との間にも船便があり、長崎街道の近道となった。「時津街道」は大名や幕府の役人にも利用され、現在もその名残りとして「お茶屋」と呼ばれる時津本陣が残る。
時津街道は、長崎市西坂を起点に時津港までの12km。時津港から彼杵までの海路20km。矢上経由の長崎街道60kmに比べ、好天なら一日の行程を短縮できた(長崎新聞ふるさと賛歌)。したがって、解説記事167P中の「大村から船で時津に上陸すると」は、少し違うのではないだろうか。