朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

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朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

スイス人写真家ロシエが松本良順の援助で撮影した日本で最初の相撲風景。大関熊川一行。ロシエとの出会いで彦馬の写真家の道が決まった。足もとに影が短く落ちていることから、日が真上から差す真夏の屋外撮影であることがわかる。体の色が黒いのは、肌色の感色性が悪いため。
ロシエ撮影、1860年、鶏卵紙、8.6×5.7

〔解説記事 163P〕  相撲の取組や土俵入り
相撲取りの写真としては、日本で最初のものです(写真70)。1860年夏、長崎を訪れたピエール・ロシエが撮影しました。場所は出島の内部で、写っているのは大関熊川一行です。
松本良順の自伝によれば、ロシエは相撲を撮影しようとしましたが、動くのでうまく撮れなかったそうです。結局、奉行の許可を得て、良順に撮影の便宜を図ってもらったということです。幕内上位の力士を出島に招待し、相撲を取る様子や勝ち負け、土俵入りなどを撮影させました。

相撲取りの足もとに影が短く落ちていることから、日が真上の真夏の屋外撮影であることがわかります。肌が黒ずんでいるのは、湿板写真は赤い肌色に感応できなかったためです。左のかみしもの男性は行司ですが、軍配は腰に差しています。
福岡藩から写真修行に来ていた前田玄造は、このとき、ロシエに付き添って写真術を学びました。写真撮影に苦労していた上野彦馬と堀江鍬次郎は、ロシエから薬剤と外国製カメラ、レンズを紹介されました。彦馬は、津の藤堂家の支援で、150両のカメラを出島商人アルバート・ボードインから手に入れました。これが機縁となり藤堂藩に仕え、江戸に出ていきます。
ロシエは日本において写真術が発達するための恩人であったわけです。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5864「 相撲(9)」 撮影者:ミルトン・ミラー 撮影地域:長崎 年代:1861-62? と同古写真。
長崎医学伝習所の責任者だった松本良順自伝によって、撮影者はロシエが正しいのがわかったのか、日本で最初の相撲写真。ロシエとの出会いが、上野彦馬に写真家の道を決めさせた貴重な写真である。

出島で撮影された相撲取りは、大関熊川一行。私の関心は今回は疑問ではなく、この「熊川」なる力士のことである。
長崎市川原町の川原木場公民館広場奥の道脇に、今は忘れさられたような「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」と刻まれた自然石の碑がある。次がその資料。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.126 平成4年11月 郷土誌余聞「その35 力士の記念碑」。元郷土誌編纂委員長高崎市郎先生の稿。話はまとめられ三和公民館蔵書に、高崎市郎先生の「ふるさとものがたり」としてある。

…一坪程の台座替りの石垣の上に約ニメートル程の自然石が建てられ、苔むしたその石碑には「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」としてあり今より百六十年も昔のことである。蘇鉄を植え込んだこの場所も草茫々として初めての者には見逃す程の有様である。
部落の人々には相撲取りの墓と呼んでいるようであるが墓とはしてない。熊川は本名でなくて川原と脇岬の村境が熊川であるのでその地名を四股名にしたのではなかったのだろうか。
天保時代には百姓町人などは姓が許されておらず、ただ名のみであったことを思えば、この力士にも住所氏名がはっきりした文書も無く又、この人の素性もわからない。然し角力中でこの碑を建てたことは、この力士が力量は勿論の事、人格的も余程尊敬に値したものも思われる。
百六十年後の今日迄この碑が人々の手によって保存されることに地元民の心根を嬉しく思った。この場所は昔の人々がいつも通った「みさき道」の東側の本街道であった。…

この稿は「みさき道」に関係するため、研究レポート”江戸期の「みさき道」”第2集22頁及び第3集34・53頁に資料として載せている。
天保3年というと1831年。出島で古写真が撮影された1860年と29年の隔たりがある。天保3年を生年月日と考えると、一番力量があった年代のようだ。引退後、万延元年(1860)親方として、四股名を継いだ大関力士とともに出島へ出かけたこともあり得るだろう。

熊川は野母崎ゴルフ場ニノ岳近く、展望台がある熊ノ岳(288.4m)に源を発する。旧三和町と野母崎町の町境を天草灘へ流れ、このため熊川の名となったのだろう。
古写真に残った「熊川」力士が、石碑の不明な人物とはたして同一人かわからないが、この力士が地元出身であって、力量はもちろんの事、人格的もよほど尊敬に値した人だったことを、地元として切に願う。高崎先生に生前、歴史的な撮影の出来事を知らせ、古写真を見せていたら、どんなに喜ばれたことだろう。
熊ノ岳風景は三和の散策(10)参照。 https://misakimichi.com/archives/1721

(追 記 2012年2月3日)
この古写真の力士は、HP「相撲の史跡・好角土俵 好角家・相撲史研究者たちの情報」
http://sumou-shiseki.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/ を参照。
幕末の大坂相撲、肥後出身「熊川熊次郎」ではないかと思うとの、見解の記事が載っていた。

2010年11月19日 (金) 熊 川
長崎大学付属図書館の幕末・明治期日本古写真メタデータ・データペースを“相撲”で検索すると、19点、“角力”でプラス1点出てくるが、同じ場面のものもある。
『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』(朝日選書)には、「1860年の相撲取り」と題して、大関熊川一行の写真が紹介されている。大学のデータベースでは撮影者ミルトン・ミラーとなっているが、本の方はロシェとなっている。この件についてはブログ「みさき道人」をごらんください。
このブログには相撲取りの墓がしばしば紹介されているが、長崎市川原町にある天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」の碑の主が関係あるのかもしれないと推察されている。
下がりを着けたまわし、塩を持った弟子などを見ると、幕末の大坂相撲、肥後出身熊川熊次郎ではないかと思う。