長崎の幕末・明治期古写真考 (2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 (2)

朝日新聞長崎地域版、最近は毎週土曜日の紙面に「長崎今昔 長大写真コレクション」と題し、長崎大学附属図書館が所蔵する長崎の幕末・明治期古写真がシリーズにより昨年夏から紹介されている。

上の記事①は、つい先日の平成20年3月1日付「趣ある稲佐崎の伝馬船」。説明文は「長崎の対岸、稲佐崎の伝馬船です。場所は現在の平戸小屋付近で、旭大橋が架かっているあたりです」。明治初年に写真家上野彦馬が撮影したもの。タイトルは以前は「長崎湾水の浦」、撮影者未詳とされていた。
訂正したこの説明は、また間違った表現をしているのではないだろうか。

次の記事②は、この前に古写真考(1)でも載せた平成19年11月20日付「稲佐の和船」。説明文は「三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街付近を撮っている」。元治元年頃、英人F.ベアトの撮影したもの。タイトルは以前は「和船」で、撮影場所不祥とされていた。

①と②の写真を、よく見比べてもらいたい。年代・撮影者は違うが、ほぼ同じ地点(当時丸尾山にあった波止場。現在の丸尾公園西角あたり)から、ただカメラの向きを変えて撮影されている。ここは撮影のポイント地点だったらしく、ベアト、内田九一も撮影したことは、ちゃんと①の記事に書いている。
これら古写真類は、私が昨年春に現地調査し、撮影場所などを研究レポート第3集によって報告した。本ブログでも昨年7月28日、この項をすでに載せている。大学も私からの報告を参考に、説明を訂正しているが、②は正しく、①はまた説明をおかしくしている。

当時の地形図は、松竹秀雄著「稲佐風土記」から私が修整作成。根拠は①の写真松の木根元に写る石祠。現在も川端旭町商店街の裏に「恵比須神社」として現存する。ほか家の格好・高台から波止場へ下る道・背景の山並みなどからもよく考えていただきたい。
したがって、①の説明は②と同じく「現在の丸尾公園あたりから旭町商店街付近を撮っている」とならなければならない。「現在の平戸小屋付近で、旭大橋が架かっているあたり」とは、現在の現地ともまったく合わない表現となっている。

このシリーズの間違いは、今回で4回目。「鼠島」でした外国人野外パーティを「神の島」、玉園町「聖福寺」から写した長崎奉行所跡を銭座町「聖徳寺」から、「旭町」商店街を「朝日町」としていた。そのつど、新聞総局を通じて知らせるようにしているが、大学・新聞社とも監修を正しくしてほしい。

この項は次の記事を参照。。https://misakimichi.com/archives/1557