朝日選書 192P写真 83 幕末の新地蔵と出島
長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。
朝日選書 192P写真 83 幕末の新地蔵と出島
明治維新直前の新地蔵(手前)とまだ海上に浮かぶ出島(奥)。出島の右奥の茂みは長崎奉行所西役所。
ベアト撮影、1867年、鶏卵紙、21.0×18.3、『スチルフリード・アルバム』
〔解説記事 187P〕 文化映す貿易の要所、新地蔵と出島
1867年、ベアトが大徳寺から撮影した新地蔵と出島です(写真83)。新地蔵は中国貿易に、出島はオランダ貿易に使われました。沖には外国の軍艦が停泊しています。出島横の茂みは長崎奉行所西役所です。
出島は1636年にポルトガル人を収容するために造成されました。その後、オランダ商館が平戸から移されると、オランダ貿易に使われました。出島に古くから建っていた日本家屋は安政の大火で焼けましたが、幕末には写真のように植民地風のベランダを持つ洋館に建てかわっていたわけです。1867年末につけられる遊歩道や橋はまだ見えず、まだ扇形をしています。
新地は、五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、1698年に海を埋め立てて造成されました。1859年の長崎再開港で在住中国人たちは唐人屋敷から新地に移り住みました。開国で居住地を限定する意味がなくなったためでした。今では40軒ほどの中国料理店や中国雑貨店が軒を並べる長崎新地中華街の起源です。
「出島復元事業」は2000年の日蘭交流400年記念をきっかけに大きく進展し、「唐人屋敷復元事業」も進んでいます。長崎は国際交流の歴史の町として、町全体を立体的な博物館にして国際的に発信していくことが期待されています。
■確認結果
幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5384「新地蔵と出島(2)」 撮影者:F.ベアト 撮影地区:出島 撮影年代:明治以前 の古写真。同解説は次のとおり。
関連作品 目録番号:794「長崎出島とロシア人居留地」は同じ場所からの写真か。
大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。出島は、建物は殆どが洋館に建て替わっているが、慶応3年(1867)の海岸通りの築足しがまだなされておらず、江戸時代以来の姿を見せる。出島右端の入母屋造2階建ては、嘉永6年(1853)に新築された外科部屋(医師住居)で、この頃はクニッフレル商会保有の空き家だったが、明治元年以前に取り壊された。慶応3年6月にベアトが撮影した類似構図の写真では、新地の白壁土蔵がまだ工事中であったから、この写真は同年後半の撮影とみられる。出島右上の樹叢は長崎奉行所の西役所(現県庁)で、その向こうには現在の茂里町付近まで深く湾入していた長崎港が見える。さらに背後には稲佐地区の集落やロシア人仮泊地と稲佐山から岩屋山にかけての山並みが望まれる。新地の右側が中島川の河口部で、手前の水面のこちら側、樹木のあいだに見え隠れするのは本籠町の家並みである。
古写真の撮影場所は、現在の西小島1丁目「大徳寺」跡や「大徳寺の丘」とあるが、具体的にどこだろう。明治維新後、大徳寺が廃寺となると梅香崎天満神社が現在地に移転、神社は現在、籠町自治会が管理している。
新地や出島の周りが埋め立てられる以前の撮影であるため、当時の地形の参考のため明治
17年国土地理院旧版地図を掲げる。
梅香崎天満神社の現在の参道から写すと、構図が合わない。変流工事前の銅座川が真正面の右から左へ真横に流れていなければならない。旧版地図から判断すると、神社参道から右へ上がった「大徳園跡」が考えられる。
江戸時代末期から明治初年にかけて、大徳寺の庫裏のあったところに、アメリカの宣教師:ヘンリー・スタウトやフルベッキ、フランス領事のレオン・ジュリーなどが仮寓していた(広助様の丸山歴史散歩)。
「大徳園跡」は次記事と写真を参照。 https://misakimichi.com/archives/1860
古写真と同じ光景を、現在では写せない。稲佐山から岩屋山にかけての山並みは、唐人屋敷北東隅に「大徳園」の裏門があり、佐古小学校側から確認した。