「ふるさと」の古写真考 P.179 大徳園での佐古小運動会(西小島・大正)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.179 大徳園での佐古小運動会(西小島・大正)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

教育の広がり  P.179 大徳園での佐古小運動会(西小島・大正)
〔写真説明〕
写真は旧長崎病院跡地(大徳寺跡)を大正5年に油屋町の橋本商会、橋本辰二郎氏(貴族院議員)が払い受け公園化し、橋本大徳園として市に寄贈した頃のものと思われる。大徳園は、昭和初期に民間の所有となり、第二次大戦中は放置され荒廃。昭和30年頃から分割売却され現在に至る。大徳園時代の門や柱は残っており、柱に「大徳園」「はしもと」、石門にも「大徳園」の文字を見ることができる。(提供:長崎市)  註 大正6年は1916年。

■ 確認結果

HP長崎市観光・宿泊ガイド「あっ!と ながさき」による「大徳寺公園」の説明は次のとおり。
大徳寺公園
丸山公園入口を右に折れた坂道(勅使坂)の左手、高い石垣の上にある大徳寺公園。明治元年(1868)に廃寺となった大徳寺の名前が現在も残っているが、その頃から長崎七不思議として“寺もないのに大徳寺”と俗謡で歌われた。
現在は梅香崎天満宮と楠稲荷神社がある緑豊かな公園として親しまれている。この広々とした風通しのいい高台は、当時長崎港を見渡せる長崎随一の景勝地で、丸山遊女達も足を運ぶ憩いの場だったといわれている。…

「大徳園」の古写真説明は、後に記す「長崎病院」を除き別に問題はない。ここで紹介するのは、大徳園時代の門や柱は残っており、柱に「大徳園」「はしもと」、石門にも「大徳園」の文字を見ることができる、という文の部分。
館内町唐人屋敷の西隅モニュメントのところに、石門があり「大徳園」とあるのは知っていたが、大徳寺公園入口から右側の坂へは行ったことがなかった。
梅香崎天満宮の車道鳥居前から坂道をそのまま登ると、すぐ道の両脇に古い門柱が立ち、右に「大徳園」、左に「は志茂登」の銘板が残っていた。中へ進むと旧園内の一帯は、個人大邸宅やアパートビルが建て込んでいた。

参考までに「長崎医科大学 (旧制)」を、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べる。「校地の変遷と継承」は次のとおり。
第五高等中学校医学部時代まで、小島校地には県立となった「長崎病院」が附属病院としてあったので、古写真説明の「長崎病院」は、この病院のことではないだろうか。
長崎市小学校職員会「明治維新以後の長崎」大正4年刊の160〜161頁にも「長崎病院」の記述がある。 

小島校地まで
1857年11月、ポンペによる開講の時点で医学伝習所は市内外浦町に所在していたが、年内に大村町に移転した。医学伝習所の後身たる養生所・医学所は小島郷字稲荷岳に開設され、「小島養生所」と称された。この小島校地は精得館・医学校へと継承され第五高等中学校時代まで存続した。
被爆以前の浦上校地
明治期の長崎医学専門学校(浦上校地)第五高等中学校医学部時代の1891年9月11日、県下西彼杵郡浦上山里村里郷(1920年10月長崎市に編入合併 / 現・坂本町)に新校舎が建設されて移転し、在来の医学校は分教場とされた。以後浦上校地は医専・医大に継承され、医大の原爆被災まで存続した。