朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

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朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

長崎の対岸、稲佐の入り江(船津浦)の船溜り。稲佐崎の左の家屋はロシア人上陸場で右は取締勤番所。丘の上は止宿場であった。
上野彦馬撮影、1874年、鶏卵紙、26.7×19.7、『上野彦馬明治初期アルバム』

〔解説記事 114P〕  趣ある稲佐崎の伝馬船
1874年に写真家の上野彦馬が撮った長崎の対岸、稲佐崎の伝馬船です(写真47)。場所は現在長崎港の奥に架かる旭大橋のつけ根あたりです。
ここに船を浮かべて撮影すると古い日本画のような趣となるためか、外国人写真家フェリクス・ベアトも1864年に長崎を訪れたとき、このアングルで船遊びを撮影しました。彦馬の弟子で東京に出て写真家として成功した内田九一も、1872年に明治天皇の西国巡行に随行したとき、ここで同じ構図で撮影しています。
右端には遠洋を走る「弁才船」(千石船)も見えています。伝馬船上では、3人の船頭が船具を動かす瞬間が見事にとらえられています。風と波のないときを見計らって、絶妙なタイミングでポーズをとらせた写真です。
江戸時代の古地図を見ると稲佐崎には建物がなかったのですが、この写真では瓦屋根の建物が目立ちます。右奥には長崎市街も見えています。
丘の上一帯は「稲佐のロシア人居留場」です。1893年11月にはこの岬の丘の上に稲佐のお栄と呼ばれた道永栄が、ロシア人相手の「ホテル・ヴェスナー(ヴェスナーは春の意)」を建てます。海岸にはそこに登る桟橋が築かれます。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5310 「稲佐海岸」の作品。超高精細画像解説で場所説明は変えているが、タイトルがまだ「長崎湾水の浦」のままなのは?
私の以前の記事は、「長崎の幕末・明治期古写真考(2)」ほか多くの記事でふれている。
https://misakimichi.com/archives/654 ほかを参照。

撮影場所を読者にわかりやすくするため、「現在長崎港の奥に架かる旭大橋のつけ根あたりです」と説明したと思われるが、そこは「志賀の波止」となる。
「志賀の波止」はこの古写真の稲佐崎の岬の裏側の入り江で、正しい撮影場所の「船津浦」船溜りとはまったく違う場所を理解される。

後掲するが、朝日選書188Pに1864年ごろベアト撮影の「81 稲佐崎の和船とロシアの止宿所」がある。解説記事186Pでは、撮影場所を「現在の稲佐の三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街あたりを撮っています。この入り江は埋め立てられて今は昔の面影がありません」としている。
同じ入り江「船津浦」の撮影であり、撮影場所の説明は後者に合わせてよいのではないか。