長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6028 浪の平と長崎港 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:6028 浪の平と長崎港
目録番号:6029 南山手外国人居留地
■ 確認結果
長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の36,37頁に掲載がある。同解説は次のとおり。
27 浪の平と長崎港 275×210
南山手外国人居留地の南端から浪の平越しに長崎市街地を望む。右の空き地の居留地境には明治20年(1887)7月に建つ尋常鎮鼎小学校はまだない。左側の古河町と浪の平町の海岸には中小の造船所が見える。上の工場付近は小曽根町の三菱炭鉱社となる。
28 南山手外国人居留地 273×215
27の撮影ポイントからさらに右の丘に登って南山手外国人居留地の南端を撮影している。U字型の道が居留地境である。居留地の最深部にあたるため邸宅は少ない。右上の建物は南山手33番。その上の松は当時「一本松」、中央のグラバー邸側の松は当時「よんご松」(曲っている松)、左の丘下の松は「下り松」と呼ばれた。
両作品とも撮影場所は、現在、琴平(金刀比羅)神社境内の小曽根乾堂像がある広場あたりからである。最初の目録番号:6028「浪の平と長崎港」は、同じような構図で撮影年代を変えた古写真が多く残り見覚えがあり、これまですでに紹介している。
次の目録番号:6029「南山手外国人居留地」は、その上手の道も撮影している写真。昨年6月からデータベースにより公開されたのか、初めて目にした。28の解説を読んで次の疑問がある。
撮影ポイントは、27の撮影場所から特に移動してないように思える。U字型の道がこのあたりは居留地境とはなっていない。ふつう「下り松」と呼ばれた松も写真の場所の松よりまだ先の方の松ではないか。
右上に白く大きな洋館が写っている。この建物は「南山手33番」だろうか。データベース上の長崎大学附属図書館作成「長崎居留地の敷分割図」の地番を見て感じた疑問だったが、「南山手
33番」の建物に間違いなく、かえって敷分割図の地番が誤っていると思われる。
参考のため、長崎歴史文化博物館所蔵「長崎市内小曽根地域地割図〔南山手居留地図〕(明治10年代後半)」及び目録番号:987「飽の浦からの汽船と南山手(1)」より付近の拡大写真を掲げた。
現在、十八銀行南山手寮がある所が居留地境の南山手32番で、当時はまだ石垣がなく未開発のようである。古写真に写った白い洋館はその奥となり、前長崎市立浪の平小学校の道路上、プールがあった所と思われる。隣は当時の大北電信会社所有地で標石が残る。
この洋館が何の建物だったのか、さらに調べていただきたい。地番は開発等に伴い、年代によって区画も少し変動している。
なお、浪の平小学校の前身は、明治11年(1878)小曽根乾堂が私費で建てた小曽根小学校。明治20年(1887)校舎を新築して鎮鼎小学校と改称した。同校跡地に現在、長崎市立南公民館が建っている。
公民館の右上小庭に昭和10年5月建立「鎮鼎同窓会記念碑」があるが、この石が古写真に写っている。現地にあった石を利用して記念碑を刻んだことがわかるであろう。
「鎮鼎同窓会記念碑」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1442