長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3816 稲佐海岸(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:3816 稲佐海岸(2)
〔画像解説〕
長崎港の湾奥の西岸では、稲佐地区が半島のように突き出ている。その最頂部から長崎市街地に向けて連絡船の航路があった。この写真は稲佐の先端から長崎市街地を遠望した写真である。撮影時期は、長崎市街の建物から判断して、明治20年(1887)代である。写真手前は稲佐の桟橋で、手前の石段の品格から見て、使用頻度の高い施設であることが分かる。木製の桟橋の先に、洗練された金属製の街灯が設置されている。対岸は長崎市街地の沿岸部である。中央の林が見えているところが長崎県庁である。その右に出島がある。写真の左側、船の向こう側は大波止から浦五島町である。この付近の沿岸部には、倉庫を構えた屋敷が立ち並んでいる。左の山は立山で、山裾に筑後町の寺院群が見える。
(関連写真)
目録番号:5630 稲佐海岸(3)
目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
目録番号:6094 稲佐の岬
■ 確認結果
要点は、稲佐お栄が造った「お栄の桟橋」と言われる桟橋は、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」か、それとも、胸を病み静養を兼ねて烏岩神社のすぐ下、平戸小屋にホテルを開業した時代の「丸尾山」の入江か、ということである。この関係は、次によりすでに考察を述べているので参照。 https://misakimichi.com/archives/1547
目録番号:3816「稲佐海岸(2)」と、目録番号:5630「稲佐海岸(3)」は同じ古写真である。
画像解説は、本年6月に追加されて作成された文と思われる。初めて読んだ。2枚目の古写真の目録番号:5519では「ホテル・ヴェスナーと桟橋」と判定しながら、なぜこのような解説になるのだろう。撮影者も上野彦馬か未詳か、一致していない。
「旧渕村の歴史を顕彰する会」が所蔵する「お栄の桟橋」古写真から見て、稲佐崎(同会は現丸尾公園西角の波止場と主張するが、そこからは写真にある大久保山が写らないので論拠が合わない)の「ホテル・ヴェスナーの桟橋」として認めて良いのではなかろうか。
データベースに最近追加された古写真で、珍しいものを見つけた。目録番号:6094「稲佐の岬」。ここが稲佐崎である。ホテル・ヴェスナーが建てられ、明治26年(1893)11月開業した。
なお、解説にある「長崎県庁」は、現地から見ると古写真の左端となる。写っている左の山は「英彦山」である。「立山」でないので、筑後町の寺院群は写らない。