長崎の古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)
〔画像解説〕 和文タイトル: 十人町よりの出島と長崎港
唐人屋敷上中腹より唐人屋敷、広馬場、新地、出島越しに長崎湾奥を撮影した写真である。出島の向こうの高台に明治9年(1876)建設の長崎県庁がすでにあり、中島川の変流工事がまだ行われていないので、撮影時期は明治10年(1877)代である。写真右の高台は十人町の日本人住宅である。写真中央の橋は、梅香崎から新地蔵を繋ぐ梅香崎橋である。その右が新地蔵で、長い倉庫の建物が見えている。写真右下は唐人屋敷の内部で、竿のようなものは福建会館の刹竿である。そこから新地に続く家並みが広馬場である。新地の先が築町で、僅かに新大橋が見えている。築町から出島には出島新橋が架かり、出島の中には教会が建てられている。出島の向こうには、長崎県庁越しに浦五島町の海岸線が見え、その先に砲台場が見えている。湾の奥に見えるのは浦上新田で、現在の茂里町である。出島の対岸は稲佐地区である。この写真は、低い角度で外国人居留地の北域を鮮明に写し出している。

目録番号: 4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
〔画像解説〕
十善寺上の山より、十善寺地区、新地、出島、浦五島町から長崎湾奥、さらに対岸の稲佐地区を撮影した写真である。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋はすでにあるが、出島の上の高台に明治9年に建設された長崎県庁の洋風新庁舎がまだ見えないので、撮影時期は明治2年(1869)から明治9年(1876)の明治初期のものである。写真左中央には、東山手の洋館が見えている。現在と違って、当時は東山手の丘から長崎湾が一望できたことが分かる。慶応2年(1866)に出島が、明治3年(1870)には新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入された。外国人居留地が完成した頃の、外国人居留地の北域を撮影している。写真右下の一画は新地で、長い倉庫が見えている。写真右下は、旧唐人屋敷である。出島には教会の建物がなく、明治初期の出島である。出島の向こうは、湾奥の浦上新田まで海が拡がっている。その後埋め立てられる地域である。

目録番号: 6042 大浦川沿いの居留地

(関連作品)
目録番号: 4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)
目録番号: 5296 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)
目録番号: 5299 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)

■ 確認結果
次の記事を参照。再掲となるが新しい収録写真を含め、撮影場所が「ドンの山」山頂近くとなるものをまとめてみた。 https://misakimichi.com/archives/1512

目録番号: 977「ドンの山から見た出島と長崎港(1)」は、指摘により撮影場所は「十人町より」が「ドンの山から」に訂正されたが、超高精細画像と解説の方のタイトルがまだ「十人町よりの出島と長崎港」のままとなっている。

目録番号: 4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」は、上と同じような写真で、上がドンの山から撮影されていることがわかるだろう。
タイトルは以前は「ドンの山から見た新地と出島」だったが、「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」に修正されている。(関連作品)に掲げた目録番号: 4863「ドンの山から見た出島と長崎港(3)」スチルフリード(?)と同じ写真からであろう。

目録番号: 6042「大浦川沿いの居留地」は、今回6月に収録された作品と思われる。画像解説は何もないが、上野彦馬撮影であり、(関連作品)に掲げた目録番号: 5296「ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)」と目録番号: 5299「ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)」と同じような作品である。
高い位置から撮影され、大浦川と弁天橋を左隅から斜め上に稲佐山の方へ向けて写されている。ドンの山の山頂近くからと中腹からのを掲げたが、最後の写真の中腹、海星学園の上となる北大浦小学校グランド角から撮影の方が合致する。
右端の石垣と下の家の屋根が同じとなる。左方は妙行寺の位置と屋根の向きに注視する。