長崎の古写真考 目録番号:3235 中島川と編笠橋(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3235 中島川と編笠橋(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3235 中島川と編笠橋(3)   関連作品 目録番号: 982 同(1)ほか(7)まであり
〔画像解説〕 
写真左側に松の大木、川面に編笠橋の影を映し、橋の袂の山門後ろに工場の煙突、森の中に諏訪神社、背景には左側に金比羅山の稜線が見える。橋の袂にある山門は、明和3年(1766)建立の太平寺の山門である。太平寺は、寛延3年(1750)この地に建立され、宝暦7年(1757)に新橋町(旧日本赤十字社跡地)、明治10年(1877)現在地の浪の平に移転した。編笠橋は、元禄12年(1699)岸村夫妻が今博多町と本紙屋町間に架けたアーチ石橋である。この石橋は中島川に架けられた最後の石橋となった。寛永の頃、この辺りに遊女屋があり、世間体をはばかり深編笠で顔を隠して廓通いをしたので、この名が付いたと言われる。本紙屋町は、昔紙漉町(かみすきまち)といって、紙を漉く職人で出来た職人町である。写真左側の松の木の下に漉いた紙を乾燥している風景が見える。昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落し、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

■ 確認結果

長崎新聞に本年1月から”龍馬動く”の企画として、長崎大学附属図書館協力「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」が掲載されている。
2010年4月25日のシリーズ<14>は、“■中島川と編笠橋■  紙すき職人の姿はっきり”
長崎新聞HPにあり参照。http://www.nagasaki-np.co.jp/press/ryoumaugoku/kikaku6/14.shtml

目録番号:3235「中島川と編笠橋(3)」の古写真で、データベース上の画像解説は上記のとおり。編笠橋を中島川の少し下流の左岸から撮影した作品だろう。
新聞記事では「橋の左の門は、諏訪神社の跡地に移転した天満宮(松森神社)のあとに建てられ、維新後廃寺となった大行寺の門である」となった。データベース上の解説「明治10年(1877)浪の平に移転した大平寺の旧山門」から説明が変わった。そのいきさつは、次にあるようだ。

「長崎くんち関連年表#1(近世編)」を参照。http://voc.hp.infoseek.co.jp/hist/text/hist01.htm
1626 寛永3 丙寅  肥前松浦郡の浪人川上久右衛門光房、今博多町の自宅の側にほこらを建て、天満神を祭る。1630寛永7年、同町中島川畔に仮殿を造営、翌年初めて例祭を執行。1656明暦2年、旧諏方の地に移し、1680延宝8年社殿を改築したが、このころ、社号を松ノ森天神と称した。
1656 明暦2 丙申  8 28 天満宮を今博多町から元諏方の地に移す。1680延宝8年、奉行牛込忠左衛門の命名で松ノ森神社と称す。今博多町の跡地には修験者が住み、1723享保8年、再び天満宮を建て広徳山大行寺と号した。維新後、大行寺は廃寺となり、天満宮のみとなったが、昭和44年4月25日都市計画で、松ノ森神社内に移った。

解説の変更は、以上を調べてわかった。「廣徳山大行寺」は、長崎市史 地誌編佛寺部下第12章廃寺820〜821頁に記録がある。「天保十三年(1842)十二月に本門を再建した」と記す。長崎市史の記録は次のとおり。

第九 廣徳山大行寺
所在  長崎市今博多町弐拾八番地即今の今博多天満宮の地
沿革  寛永三年今博多町に天満天神を祭神とする一社が創立されたが、明暦二年九月拾五日に至り、同社を松の森の地に遷座したので、萬治元年に大行院常学と云ふものがその跡に一草庵を結んだ。これが当寺の起原である。其の後当寺には代々弘才の僧侶が住して経論を講することとなり、之を流法席と称した。安禅院の正覚院もこゝに退院(滞院?)したことがあつた。正徳三年改めて寺となし大行寺と号した。
享保八年八幡町なる修験道般若院の住職映澄 同院三代 と云ふもの大行寺の地を獲て天満宮を建立し、本山 白川聖護院 に請ふて廣徳院大行寺と号した。
文化十年祈祷所を、文政十一年寺坊を、天保十三年十二月に本門を再建した。
明治元年寺院を廃して純一の神社となつた。今の今博多町天満宮が即ち是れである。
境内  百七拾弐坪

同地は現在、区画整理事業後の中島川通りの一部となっている。「宮の下公園」の手前角地あたりである。データベース上の画像解説はすぐ訂正できないのだろうか。すぐ下流の古町橋脇に我が国尺八文化の重要な伝承地、虚無僧止宿所「松壽軒跡」(普化宗)碑がある。ここが「太平寺」跡地のようだ(長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」73頁太平寺の項)。

なお、関連作品の目録番号:2886「中島川と編笠橋(2)」の超高精細画像は、タイトルが以前の「中島川の風景(3)」のまま、間違っていた阿弥陀橋を画像解説している。撮影者は「玉村康三郎」ではないのか。また目録番号:982「中島川と編笠橋(1)」は、超高精細画像のタイトルが「同(2)」となっている。