月別アーカイブ: 2010年5月

長崎学さるく”江戸期の「みさき道」1日歩き”  平成22年5月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

長崎学さるく”江戸期の「みさき道」1日歩き”  平成22年5月

平成22年5月16日(快晴)。長崎学さるく”江戸期の「みさき道」1日歩き”。参加30人。長崎医学伝習所生、関寛斎「長崎在学日記」の紀行をもとに、文久元年(1861年)に彼ら一行がたどった道を推定し、実際に歩いて体感する。
湊公園7時30分発ー十人町ー二本松ーダイヤランドー土井首ー深堀ー大籠ー三和行政センター12時50分着(昼食)ー蚊焼峠ー徳道ー高浜ー堂山峠ー脇岬観音寺18時20分着(徒歩距離約30km)

江戸時代、行楽を兼ね「みさきの観音」参りで賑わった「みさき道」。長崎市中から脇岬まで七里(約28km)の道。現存する道塚12本のうち10本を訪ねる一日歩き超健脚コースとなった。
大型団地やゴルフ場の造成などにより、一部区間は喪失しているが、約半分は当時の山道が残り、街道の雰囲気を味わえる。
司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な主人公が関寛斎。彼ら3人が旅したのは、新暦で今頃である。五月晴れのさわやかな日となり、「長崎在学日記」の紀行文を検証した。
運動会シーズン。通りがかった長崎市立戸町中学校の早朝の様子。

「みさき道」の概要、地図などは、 https://misakimichi.com/archives/59
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/24766633.html
パソ親父さんのは、   http://blogs.yahoo.co.jp/minami_kita/61574944.html

長崎の古写真考 目録番号:6204 長崎製鉄所(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6204 長崎製鉄所(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6204 長崎製鉄所(2)

関連作品  目録番号:5314 長崎製鉄所
〔画像解説〕
安政5年に日本は開港し、長崎港の東側である東山手・大浦・南山手に外国人居留地が造られた。しかし、開港する前の安政4年(1857)には長崎港の東側、飽の浦地区(現在の三菱造船所)では、幕府はオランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2年(1862)に完成させている。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。二本の煙突のある鍛冶場は、ボイラー室で煉瓦造の建物である。右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。この写真は完成直後の飽ノ浦製鉄所である。写真中央に見える岬は、稲佐地区である。その対岸は、西坂の丘である。長崎市街地は、左から右にかけて、西坂から出島にかけての市街地の沿岸部が見えている。長崎大学附属図書館には、少し時代が新しい写真【目録番号978(整理番号21-3)】がある。

■ 確認結果

目録番号:6204「長崎製鉄所(2)」は、長崎大学古写真データベースに昨年6月頃、追加して収録されたようである。画像解説は、関連作品の目録番号:5314「長崎製鉄所」に上記のとおりあり、特に問題はない。

今回の目録番号:6204「長崎製鉄所(2)」は、朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末” オランダに保存されていた800枚の写真から」1986年刊の巻頭「風景いまむかし」8頁に掲載されている。
「幕末の外国人の目に映った日本の美しい風景のなかから、12の地点をより選って(選りすぐって?)、今日の姿を同じアングルで”定点観測”してみた」そうである。

2枚目の対比写真がそれ。現在の写真は、西泊湾から三菱長崎造船所本工場のうち、西泊や立神の工場を写していて、古写真の飽の浦の工場でない。背景の山がまったく違うし、同じアングルとなっていない。
古写真の撮影場所は、本工場地図のとおり、現在の「塩浜町」バス停上の高台あたりから写せる。背景の山は金比羅山と烽火山。巨大クレーンは次写真のとおり右外にある。 

今頃、指摘してもはじまらないが、権威ある写真集の巻頭写真の編集として粗雑。あと1地点、大浦居留地の間違いと思われるものがあり、次記事とする。

釣れた? 釣具店の釣人 (11)  長崎市平山町

イメージ 1

イメージ 2

釣れた? 釣具店の釣人 (11)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

この頃はオーソドックス。春イカねらいのエギングロッドだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1274 運河沿いの農家

イメージ 1

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1274 運河沿いの農家

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1274 運河沿いの農家
〔画像解説〕
キャプションに「横浜の運河沿いの農家」とある。横浜の運河沿いであるが、場所は未詳。F.ベアトの撮影。

■ 確認結果

目録番号:1274「運河沿いの農家」は、同写真を当時、模写した絵があり、須藤功氏編著「【図集】 幕末・明治の生活風景 外国人のみたニッポン」東方総合研究所1995年刊の第14章列島の町と人312頁に掲載されている(転載不可)。同解説は次のとおり。
キャプションの「横浜の運河沿いの農家」とは、異なった解説となっていて、正しいかわからないが、撮影年代や場所の推測はできるだろう。

河畔の家——手前の堀川は、横浜の外国人居留地の境界にするため、万延元年(1860年)に開削された。そのとき居留地になる地内に住んでいた者は、山手の元村に移住させられた。図の家もそうした家で、原図では貧しい家となっている。だが、それは外国人の目であって、図を見るかぎり、貧しいという感じはしない。元村の人々は、やがて外国人を相手に商売を始め、成功する。 出典32

長崎外の古写真考 目録番号:6212 神奈川の街道 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6212 神奈川の街道 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6212 神奈川の街道

目録番号:6326 神奈川台町の関門(3)
〔画像解説〕   関連作品の目録番号:1441 神奈川台町の関門(1)から
開港後の万延元年(1860)、警備を厳重にするために設けられた。右手が山側、左手が海側である。神奈川宿は海蝕崖の上に形成された町で、台町はその一部である。この写真に添えられた解説シートには、「神奈川は細長い街で、かなりの規模の村であり、東海道に面している。茶屋や道路沿いに旅館も多い。江戸から16〜18マイル位の距離なので、江戸に到着する前日に宿泊したり、江戸から出発して最初に泊まる場所である。しかし商店は小さく、茶屋も東海道のどこにでも見られるような良いものはない」と記されている。”The Far East”1871年1月5日号に同じ地点の写真が掲載されているが、そこでは右手の崖が、鉄道用地埋立のための土取場として削り取られ、垂直に地肌を見せている。崖の上には埋立工事を請け負った高島嘉右衛門の屋敷が設けられたことから、高島台の地名が生まれた。

■ 確認結果

目録番号:6212「神奈川の街道」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊84頁に掲載があり、タイトルを同じとしたようだが、写真集とも画像解説がないので場所がわからない。
横浜開港資料館HPの「3.F.ベアト幕末関係画像集」によると、この写真は次と同じ「神奈川台町の関門 幕末期」【請求記号】Bc1-216-48 として解説している。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/03_09.html

目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊83頁に掲載があり、タイトルは「横浜から金沢八景に向かう街道」となっている。
同じ写真を当時、模写した絵があり、須藤功氏編著「図集 幕末・明治の生活風景 外国人のみたニッポン」1995年刊248頁による解説は次のとおり。
「関門——横浜開港直後に神奈川宿青木町にもうけられた関門。文久2年(1862年)の生麦事件の際、島津侯の行列の通過を待って木戸を閉じ、外国人の追撃に備えたこともあった。明治4年、他の関門とともに廃止。右手の山は、後に鉄道用地埋め立てのため削り取られた。 出典
49」

神奈川台の関門跡には、現在、横浜市が設置した碑と説明板がある。説明板の掲示写真は目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の方。 
「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された」

横浜の関門は、西ノ橋、海岸通4丁目のほか神奈川宿の神奈川台下や戸部村字石崎にも置かれていた(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。青木町は神奈川台町のことのようだ。
以上が諸資料に掲載している「神奈川台町の関門」の概要。データベースには、目録番号:1441「神奈川台町の関門(1)」、スチルフリード撮影の目録番号:3998「神奈川台町の関門(2)」もあるので参照。
目録番号:6212「神奈川の街道」と、目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」は景色が違う。撮影年代は1863年と1865年。同じ場所の関門なのか。写真の向きもあろうが、いろいろな解説があり理解しにくい。

なお、「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年刊の53頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 55、56:神奈川台町の関門

55(目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の作品) 神奈川開港後、警備を厳重にするために設けられた。被撮影地点が神奈川であることを疑問視する人もいるが、「ファー・イースト」1871年1月5日号に同一地点が写っている写真がある。後者では右手の崖が鉄道用地埋め立てのための土取り場として削りとられている。(ベアト撮影)

56(目録番号:6212「神奈川の街道」の作品) 写真55とは別なもうひとつの関門。左手が山側、右手が海側である。下田屋の看板が見える。(ベアト撮影)

長崎外の古写真考 目録番号:1441 神奈川台町の関門(1) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1441 神奈川台町の関門(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1441 神奈川台町の関門(1)
〔画像解説〕
開港後の万延元年(1860)、警備を厳重にするために設けられた。右手が山側、左手が海側である。神奈川宿は海蝕崖の上に形成された町で、台町はその一部である。この写真に添えられた解説シートには、「神奈川は細長い街で、かなりの規模の村であり、東海道に面している。茶屋や道路沿いに旅館も多い。江戸から16〜18マイル位の距離なので、江戸に到着する前日に宿泊したり、江戸から出発して最初に泊まる場所である。しかし商店は小さく、茶屋も東海道のどこにでも見られるような良いものはない」と記されている。”The Far East”1871年1月5日号に同じ地点の写真が掲載されているが、そこでは右手の崖が、鉄道用地埋立のための土取場として削り取られ、垂直に地肌を見せている。崖の上には埋立工事を請け負った高島嘉右衛門の屋敷が設けられたことから、高島台の地名が生まれた。

目録番号:1442 一ツ橋門外護持院原(超高精細画像のタイトルは「牛ヶ淵」)
〔画像解説〕
田安門から清水門までの内堀は牛ケ淵と俗称される。堀の形状が似ているから、或いは銭を積んだ牛車がこの堀に落ちたから呼ばれるようになったという。この写真は九段坂の坂上付近から牛ケ淵を望んだもの。いま少しカメラを右に振れば、田安門が写った筈である。堀の突き当りに見える長屋風の建物は近衛歩兵営の一部らしく、その左手に清水門が写っている。清水門は『東京市史稿』によると明治4年(1871)に撤廃されているから、それ以前の撮影となる。写真師はベアト(Felix Beato)である。現在の清水門は昭和39年(1964)になって復元整備されたもので、昭和36年(1961)6月に国の重要文化財に指定されている。近衛砲兵営のあった場所は、現在皇宮警察・警視庁第一機動隊・科学技術館が建つ。堀の左手は飯田町1丁目(現九段南1丁目)で、後に靖国神社の牛ケ淵附属地となり、明治35年(1960)にパノラマを見せる国光館が竣工する。現在、昭和館・九段会館・千代田区役所が建ち並んでいる所である。

目録番号:4004 一ツ橋門外護持院原の風景

■ 確認結果

〔画像解説〕を読んでわかるとおり目録番号:1441「神奈川台町の関門(1)」と、目録番号:1442「一ツ橋門外護持院原」(超高精細画像のタイトルは「牛ヶ淵」)は、古写真を入れ間違って整理されている。超高精細画像の古写真と画像解説はOK。

目録番号:4004「一ツ橋門外護持院原の風景」は参考。入れ替え後の目録番号:1442「一ツ橋門外護持院原 」と同じ写真ではないようだ。スチルフリード撮影。パノラマ写真の一部。

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口ほか (再掲)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口ほか (再掲)

朝日新聞長崎地域版きょう2010年(平成22年)5月8日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「1866年2月の街と港 龍馬とお龍見た景色」。解説は、
「福済寺裏山の立山中腹から、ベアトが撮影した幕末長崎の街と港です。…1866年2月を示すベアトの書き込みもあります。撮影時期が明確なため、幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる写真です…」

この写真を取り上げたのは、撮影場所がきょうの新聞記事も「福済寺裏山の立山中腹から」となって、必ずしも明確ではない。どこも「龍馬が見た景色」となる傾向もどうかと思われる。
はたして具体的な撮影場所はどこだろうか。
データベースでは、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の作品である。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1575
https://misakimichi.com/archives/1584

撮影場所は「立山から」に間違いないが、長崎大学が「幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる重要な写真」としながら、具体的な撮影地点をはっきり検証されていないため、いろいろな意見が出ている。
2009年元旦紙面の朝日新聞や、2003年の長崎市写真団体合同展実行委員会の推定地点とはならないだろう。私が探した撮影場所は、立山バス停の「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりである。

要は、街や港を俯瞰した写真の高度感と、奥に写る島や山の稜線。女神大橋が架かって見えにくくなったが、神崎鼻先の香焼島の姿、深堀城山と大久保山、鍋冠山と八郎岳の稜線の重なり具合が、古写真どおりとなるかが、ポイントだろう。
この古写真とまったく同じと思われる撮影場所から、長崎港と街を写している作品がある。2枚目の目録番号:2882「長崎立山からの長崎港(1)」。
データベースでは撮影者未詳となっているが、上野彦馬の撮影である。

馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年7月初版の60頁に、48「福済寺裏山からの長崎港」として掲載されている。
HP上では、扇精光株式会社制作「上野彦馬フォトギャラリー」という珍しいウェブがある。「写真の開祖」上野彦馬による幕末の長崎の様子。クリックすると過去から現在へ移り変わりをムービーで見ることができる。 http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html

よく知られる長崎の5枚の古写真のうち、2枚目に「長崎港」として目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」の作品が表れる。出典は「写真の開祖 上野彦馬 −写真に見る幕末・明治−」発行所:産業能率短期大学出版部 発行者:上野一朗氏。
昔:長崎港、明治21年(1888)撮影
今:平成11年2月(1999)立山2丁目長崎ホテル横の空き地から撮影

扇精光が11年前1999年、綿密に調査推定した地点は「立山2丁目長崎ホテル横の空き地から」である。私の地点「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりとまったく近くとなる。ホテル横の空き地に墓地が造成され、その上部に老人ホームが新しく建っている。

「立山」とは普通、バス終点付近を言い、このあたりが山頂だろう。しがって目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の撮影場所は、「福済寺裏山の立山中腹から」とまぎらわしくしないで、目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」と同じく、「立山から」撮影の説明で良いのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号:6213 熊本藩江戸屋敷

イメージ 1

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6213 熊本藩江戸屋敷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6213 熊本藩江戸屋敷

■ 確認結果

目録番号:6213「熊本藩江戸屋敷」の写真を当時、模写した絵があり、須藤功編著”【図集】幕末・明治の生活風景 外国人のみたニッポン”東方総合研究所1995年刊の第13章◆江戸を伝える東京281頁に掲載されている(転載不可)。同図集の解説は、次のとおり。

「薩摩屋敷——肥後・細川家の屋敷ともいわれてきたが、最近、三田薩摩屋敷と訂正された。慶応3年(1868年)12月25日、江戸にいる薩摩藩浪士の江戸撹乱に対し、旧幕府軍が図の薩摩屋敷を焼き打ちにした。これが戊辰戦争のきっかけとなり、江戸幕府は敗れて崩壊する。 出典
32」

長崎外の古写真考 目録番号:6224 薩摩藩士 ほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6224 薩摩藩士 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6224 薩摩藩士

目録番号:6306 外人墓地

■ 確認結果

この古写真は、朝日新聞社”写真集 「甦る幕末」 オランダに保存されていた800枚の写真から”1986年刊の、外国人を殺害した「攘夷事件」の項に掲載されている。
目録番号:6224「薩摩藩士」は、写真集129頁に「外国との交渉に臨んだ薩摩藩の代表」と、目録番号:6306「外人墓地」は、写真集133頁に「横浜・外人墓地。リチャードソンの墓からオランダ船長らの墓を望む」と解説している。
薩英戦争の引き金となった生麦事件(1863)などに関係する写真と思われる。データベースのタイトルはあまりに一般的すぎ、簡単な説明が必要ではないか。
目録番号:6306「外人墓地」は、撮影年代が事件と合わない。

なお、目録番号:6224「薩摩藩士」の作品は、「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年刊の167頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 195:和平交渉に臨んだ日本側使節

写真の添え書きに「薩摩の使節と幕府の全権大使」とある。薩摩藩の正使・岩下佐次右衛門を始めとする重野厚之丞、樺山舎人、能勢二郎右衛門の4人と、立ち会い人となった幕府外国奉行支配調役・鵜飼弥一、徒目付・斉藤次郎太郎であろうか。(ベアト撮影)

長崎外の古写真考 目録番号:6209 木戸

イメージ 1

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6209 木戸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6209 木戸

■ 確認結果

目録番号:6209「木戸」は、撮影地域「横浜」であるが、データベースに画像解説がない。
この古写真は、朝日新聞社”写真集 「甦る幕末」 オランダに保存されていた800枚の写真から”1986年刊の風景55頁に掲載されている。
「横浜・遊郭。岩亀楼などがあった」と解説している。

なお、この作品は「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年刊の44頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 43:横浜・衣紋(えもん)坂下

右に「豊沢猿糸 当六月七日夜より 大人叶 くる八」と書かれた張り紙が見える。これが遊郭を写したものと考えられてきたのはそのためであろう。しかし、港崎遊郭の大門には屋根があり、入ってすぐの仲之町には桜並木があった。このような貧弱な町並みではありえない。遊郭へ向かう吉原道(末広町)の入り口、衣紋坂下の大木戸と推測する。(ベアト撮影)