長崎の古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

■ 確認結果

目録番号:6063「大浦川中流域から東山手を望む」は上野彦馬撮影。画像解説がない。タイトルもこれで仕方ないだろう。長崎大学附属図書館企画編集「長崎大学コレクション 明治七年の古写真集」長崎文献社2007年刊44頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

34 大浦川中流域から東山手を望む  271×207 
南山手26番付近から大浦および東山手の居留地を展望している。手前の大浦川左岸には空き地が目立つ。東山手の丘には唯一12番のアメリカ領事館がみえる。手前大浦川を挟んだ対岸は角から右に29番(H・ホー商会)、左には15、14番(外国人のバー)の邸宅である。建物は和風擬洋式で、コロニアルなベランダが特徴的である。

次に説明する古写真が、長崎大学附属図書館に所蔵がないのか、データベース上で見当たらないため、同じ通りを写したこの目録番号:6063の作品を借りて説明する。
朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末” オランダに保存されていた800枚の写真から」1986年刊の巻頭「風景いまむかし」9頁に掲載されている作品。
「幕末の外国人の目に映った日本の美しい風景のなかから、12の地点をより選って(選りすぐって?)、今日の姿を同じアングルで”定点観測”してみた」そうである。

2枚目の対比写真がそれ。右の現在の写真は、松が枝橋脇の長崎市営駐車場がまだ見当たらないので、中華料理店四海楼の階上から撮影されたのか、「大浦海岸通り」を写している。
古写真と対比するとこの国道通りが、古写真右側のまっすぐ広い通りのように感じられるが、右側の通りは大浦海岸通りでない。
東山手突き当たり高台に、12番アメリカ領事館が見えるとおり、現在、NTT長崎病院と孔子廟前の通りである。大浦海岸通りから奥へ4番目の通りとなる。

古写真の撮影場所は、長崎大学の「明治七年の古写真集」では、「南山手26番付近から」と解説している。一帯は高いビルが建ち、この通りや大浦海岸通り、長崎港奥が見えなくなっている。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1931
https://misakimichi.com/archives/2176

この通りがまっすぐに古写真どおり写せるのは、妙行寺先の「南山手26番」前付近になるのは間違いないが、南山手地区町並み保存センターに展示している大浦居留地模型から判断すると、「南山手26番」よりまだ少し先の道あたりになるようである。
背景の山は金比羅山と右奥に帆場岳(三ツ山)。現在、現地では孔子廟前の通りが見えないため、南山手レストハウスへ登る途中のコーポ吉野からと、レストハウス上のグラバースカイロード展望台高台からこの通りを確認した。

ところで、朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末”」。9頁の左側古写真は、少し上へずらすと山の稜線など合い、まともな組写真となるはず。撮影場所は「松が枝橋付近」からではない。解説の「長崎・現在の南山手」は、「南山手から大浦居留地を望む」が正しいだろう。
同じ景色を現在、簡単に写せない事情はわかるが、権威ある写真集の巻頭写真の編集として粗雑。撮影場所の誤解が生じないようお願いしたい。