三府龍脉碑記  名護市東江1丁目 ( 沖縄県 )

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三府龍脉碑記  名護市東江1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。「三府龍脉碑記」1750年の石碑は、名護市立名護博物館(東江1丁目)に現物が保管・展示されている。
複製された現在の碑は、名護の市街地、ひんぷんガジュマルの下に立つ。昭和37年(1962)に新しく建てられたもの。

三府龍脉碑記 さんぷりゅうみゃく
名護市 名護博物館 石碑(隅丸型) 1750年 県有形 (歴史資料) 名護博物館/WEB(みさき道人) 沖縄戦で所在不明→幸地川の河床から破片の一部が発見 /18世紀中頃に名護湾〜羽地内海を結ぶ運河開削を望む声が上がったのを制止するため蔡温が建てた碑文 3 B

(正面)「三府龍脉碑記/竊惟天分星宿地列山川而天地列相孚之美誠莫切焉故在地成形者峙而為山岡瓏阜散而為/平原郊濕皆莫非二氣之凝布矣是以察岡瓏之所来則知平原之發跡所謂萬山一貫是也吾/國三府四十一縣岡瓏平原分合向背成乎虎伏龍蟠之勢得乎同幹異枝之宜而龍脉綿綿大/顯天然之姿是誠萬世洪福之國也前古/天孫氏首出闢國始建/王城於首里府是由神眼之所相豈係常人之臆度奈至後世妄懐愚見或有言曰首里嶇岨不若/名護平担之為愈或有言曰屋部港自西横東古我地港自東横西而其間唯有一丘爲隔矣國/頭羽地及大宜味三縣船隻遠經郡伊二嶋屢爲海風所阻何不劈開是丘而與船隻往還之便/也云爾鳴呼/王城及是丘悉皆微茫龍脉之所累豈可妄移/王城於他方乎豈可妄劈是丘而作水路乎今帰仁本部二縣唯頼是丘一脉而爲三府一體三府/亦頼是丘一脉而保球陽雄勢若劈是丘而作水路則二縣龍脉不唯不相属球陽却失大體雄/勢也必矣方今/君主生質天縦徳學日新思之深慮之切特命臣温以鐫斯文於碑石永俾後人知龍脉之係乎邦家/景運而有萬山一貫之理矣 旹」

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 三府龍脉碑(さんぷりゅうみゃくひ)
県指定有形文化財(歴史資料)
指定年月日 平成3年1月16日

三府龍脉碑(さんぷりゅうみゃくひ)は、名護の市街地(しがいち)の中に立つ、ひんぷんガジュマルの下に建っています。現在建っている碑(ひ)は、昭和37年(1962年)に新しく建てられたものです。乾隆(けんりゅう)15年(1750年)に建てられた元の碑は、太平洋戦争の時に破壊(はかい)されましたが、あとでその一部が幸地川(こうちがわ)から見つかり、現在(げんざい)は名護博物館で保管(ほかん)されています。
この碑が建てられた当時、琉球王府(りゅうきゅうおうふ)では首都を首里(しゅり)から名護に移(うつ)す意見(いけん)や、屋部(やぶ)と古我知(こがち)の間の丘(おか)を切り開いて水路を作る意見がありました。碑は、当時琉球王国の三司官(さんしかん、今のだいじん)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)がこのような意見をしずめるために建てたものです。
碑には「琉球の国土(こくど)は一つの山脈(さんみゃく、龍脉)のようなものである。丘を切り開くのはこの山脈を切ることになってしまい良くないので、国家の繁栄(はんえい)に悪い影響(えいきょう)を与える」という内容の文が刻(きざ)まれています。