月別アーカイブ: 2010年7月

柳のムクノキ  西海市大瀬戸町多以良外郷

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柳のムクノキ  西海市大瀬戸町多以良外郷

国道206号線により大瀬戸町多以良外郷まで行き、案内標識により柳ノ浜海水浴場へ向かう。金波旅館から左折、旧道にすぐ大瀬戸町の「ムクノ木の巨木」説明板がある。
後ろの坂道を少し登ると、右手奥に2軒の民家入口があり、奥の家(空家)の玄関前川の対岸斜面地にムクノキが立つ。現地説明板は次のとおり。

大瀬戸町指定天然記念物  ムクノ木の巨木

ムクノ木は、「ニレ科」の植物で、本州(関東以西)・四国・九州地方の山地に生える、20m程の落葉高木で、本県では各地に見ることができる。
ムクノ木は、春にうす緑色の花を開くが、葉は長卵形でざらざらしており、物をみがくのに使われ、材は器具や建築用などに用いられる。
黒く熟した実は甘いので、食用として子供がよく食べる。
このムクノ木の樹齢は定かでないが、地上1mの幹囲4.80m、樹高約10m、広がり約15mあり、この地方では大変珍しい巨木である。平成9年1月23日天然記念物として町の指定を受ける。                      平成10年3月  大瀬戸町教育委員会

長崎の古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5878 対馬(6)

対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。

■ 確認結果

目録番号:5878「対馬(6)」は、長崎県対馬関連の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。
対馬の「都々智神社」は、次のHP参照。現在の写真も同HPから。
玄松子さんが歩いた各地の神社の記憶 http://www.genbu.net/data/tusima/tututi_title.htm

この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊しました。この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の大島の都々智神社と軍艦の写真です (写真82)。場所は湾の入り口付近で、対馬を撮影した写真としては最古のものでしょう。長崎大学にはこのき撮影された湾内の写真がほかに5枚残されています。
島の左側に鳥居が立ち、右に拝殿が見えます。この神社につながる参道は、満潮のときには海に沈みます。対馬では本宮が山頂や海岸にあり、里宮が里にあるのですが、この神社は郷崎大明神の里宮になるようです。

「防人の島」として知られる国境の島である対馬は、外国の脅威にさらされていました。
1861年には、ロシア海軍中尉二コライ・ビリレフ率いる軍艦ポサードニク号がこの湾の占拠を始め、兵舎、工場、練兵場をつくり、半年ほど居すわって島民を脅かしました。「対馬事件」と呼ばれる幕末の外国人による無断上陸事件で、幕府はこれを退去させるのに苦労しました。
1900年には、日露戦争に備えて小型の艦艇を通すため陸地を掘削して、万関(まんぜき)と呼ばれる水路がつくられました。この水路を通って進撃した水雷艇が日本海海戦で日本に勝利をもたらしました。

長崎の古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか (再掲)

朝日新聞長崎地域版2010年7月3日付”長崎今昔 長大コレクション”に掲載された「亀山社中付近から見た街 龍馬も訪れた撮影局」。
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の次の作品である。

目録番号:6275 新大工町の鳥瞰

目録番号:6277 春徳寺遠望

■ 確認結果

朝日新聞の記事は、見出しを「亀山社中付近から見た街」とし、撮影場所を「亀山社中があった伊良林の高台から、若宮稲荷神社の鳥居越しに撮影されている」と解説している。あまり間違いないが、実際の撮影場所はどこだろうか。
亀山社中付近は、西側を向いている。若宮稲荷神社の参道鳥居や上野撮影局、中川方面がまったく見えないから、見出しとするのは、適切でないと思われる。

では、伊良林のどのあたりの高台から撮影された写真だろうか。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2193
私の推定では、地図の黄色●地点である。亀山社中と若宮神社の中間あたり。高さは少し下がる。現在の写真は、光源寺墓地内、高台の「大春家」墓門の場所から写したから、春徳寺の大屋根の向きが古写真と比べ少し変わった。

資料にしたとおり、朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価において、慶應義塾大学高橋信一教授は「上野彦馬邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望んだ写真である」と解説している。
もちろん近くの場所になるが、写真に写された街の向きから「亀山社中付近から見た」とするより、「若宮神社付近から見た」とする方が、妥当な解説ではないだろうか。

笑 道?  西海市大瀬戸町多以良内郷

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笑 道?  西海市大瀬戸町多以良内郷

国道202号線で西海市大瀬戸町多以良内郷まで行く。史跡小佐々城跡登り口のすぐ先、国道左側に「造形 笑道? 202」の家があり、庭に展示している。
先のバス停「柳口」には、トトロがいた。

都市計画道路・小ケ倉蛍茶屋線が全線開通

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都市計画道路・小ケ倉蛍茶屋線が全線開通

長崎新聞2010年7月5日のながさきニュース。最後の工区となっていた愛宕工区(桜木町−愛宕4丁目、全長約1・5キロ)が完成。4日から供用開始しているので、その区間の様子。

都市計画道路・小ケ倉蛍茶屋線が開通 長崎中心部の渋滞緩和期待

長崎市中心部の渋滞緩和などを図るため、国の補助を受け県や同市が建設を進めてきた「都市計画道路小ケ倉蛍茶屋線」(小ケ倉町2丁目−矢の平1丁目、全長約9・5キロ)が完成、4日、同市桜木町の田上絆橋(きずなばし)で開通式があり、供用を開始した。
小ケ倉蛍茶屋線は1970年に着工。最後の工区となっていた愛宕工区(桜木町−愛宕4丁目、全長約1・5キロ)が1日完成した。全線が開通したことにより、同市南部−同東長崎地区間の渋滞緩和による所要時間短縮が見込まれる。

長崎南環状線2期事業区間は別。唐八景トンネルは貫通しているが、長崎県長崎南バイパス建設事務所HPによる計画図のとおり、この完成は平成23年3月目標となっている。

池崎のアコウ  西海市西海町太田和郷

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池崎のアコウ  西海市西海町太田和郷

大瀬戸から行くと、国道202号線西海市西海町太田和港の次のバス停が「池崎」である。
バス停後ろの高い石垣にアコウの大木2本が並んで立っている。
いずれも幹囲5m、樹高13mほど。

道の駅さいかいのタブノキ  西海市西海町木場郷

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道の駅さいかいのタブノキ  西海市西海町木場郷

西海橋手前の小迎交差点から国道202号線により西海町へ向かう。川内からすぐ県道43号西彼太田和線に入って中間位。西海市西海町木場郷にみかんドームの道の駅さいかいがある。
駐車場の中に立つタブノキ。現地説明板は次のとおり。

保存の樹
樹木名  タブノキ
樹 高  15メートル
幹周り  4.5メートル
推定樹齢 約300年
数百年もの昔より、この場所で根付き、このような巨木になるまで成長し、これからも「道の駅」さいかいのシンボルツリーとして、年輪を重ねて行くことでしょう。

西海市西海歴史民俗資料館  西海市西海町黒口郷

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西海市西海歴史民俗資料館  西海市西海町黒口郷

国道202号線などで、西海市西海総合支所まで行く。市道の対面側に西海市西海歴史民俗資料館や西海公民館がある。入館無料。

平成3年5月には、町公民館に隣接して、西海町歴史民俗資料館が完成した。2階は図書室、3階は町の歴史・文化財を紹介し、民俗資料・遺跡出土品を展示した資料館となっている。(西海町郷土誌605〜606頁)

西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町

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西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町

明治9年(1876)、太政官布達により、国道、県道、里道(町道)の3等級が定められた。
明治29年(1896)、西彼杵半島を一周する県道に関する議案が県議会ではかられた。明治
32年(1899)、外海県道が開通し、明治38年(1905)、内海県道が開通となった。
内海線は、面高を基点として長崎まで15里(60km)あり、1里(4km)ごとに石の道標が立てられた。当時の人は、西海町を早朝に出て、夜には長崎に着いたという。

西海町「西海町郷土誌」平成17年発行495頁の主要道路建設の項で、西海町面高を基点とする西彼杵半島旧明治県道の内海線に「一里標」を建てたことを記している。
当時の「一里標」がまだ残っているだろうか。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/952
2008年6月、西彼町八木原郷に「長崎十二里」と刻んだ一里標を見かけたことを記事にした。

全国にはいろいろなマニアの人がいる。HP全国「標石図鑑」(現在HPは、都合により閉鎖)で、この標石を最近、長崎県の標石として取り上げてもらったので、詳しく他の「一里標」の存在を調べることとした。
西彼町「西彼町郷土誌」平成15年発行316頁に「旧県道の一里塚」として、西彼町に5本の一里塚が建てられたことを記している。
標石なので、正しくは「一里標」。長崎への距離に応じて「九里標」「十五里標」などと刻んだものもある。以下、「一里標」として説明する。同郷土誌説明は次のとおり。

旧県道の一里塚
明治38年(1905)完成の長崎〜面高間の内海県道には、一里塚が設けられた。当町域にも
5ヵ所に一里塚が建てられたが、その後の道路改修などのため、今ではその形をとどめていない。当時の旅人はこれを旅程のめやすとして、近くの木陰などで休息を取っていたのであろう。

同314頁には、西彼町の当時の「往還図」がある。西彼町で別にわかったのは、上岳郷山中バス停にある標石である。「面高へ六里二分」と刻んでいるから、316頁の標石である。標石は新しく見え、今までバス停傍らになかったと思う。あったら以前に気付いたはずである。どこかに展示していて最近、移設されたものと思われる。
西彼町の外の3本、鳥加郷よしのドライブイン付近、平山郷大串小学校下、八木原郷皆割石は、所在が今のところわからない。

基点の面高に戻って、西海町域の旧県道標石を探してみる。大瀬戸歴史民俗資料館に前お勤めの江越先生が知っておられた。西海市西海公民館の正門右に「十五里標」、隣の西海市西海歴史民俗資料館3階に展示品の「十四里標」がある。
あと1本は、大瀬戸町多以良内郷にある。多以良から行くとトトロのある「柳口」バス停から右の旧県道の道へ入る。西海町七釜郷へ出る中間位の道目木という集落に「一里標」が現存する。この標石は、外海線の旧県道標石と思われる。外海線にも一里標が建てられていたのだ。数回通った道なのに覚えがなかった。
外海線については、西海市立西海南小学校下、板浦トンネル上の斎場下、西海市役所神社側駐車場あたりの旧県道だった道にも、標石があったと地元の人などに聞いているが、今はないようである。

以上、現在までの調査により判明した西海市西彼町・西海町・大瀬戸町関係の「一里標」標石5本を、写真によって紹介する。所在地・刻面・寸法は次のとおり。移設されたものもある。

写真  1〜  2  西彼町郷土誌掲載の「旧県道の一里塚」及び当時の「往還図」

写真  3〜  5  西彼町上岳郷 山中バス停付近
正面「九里標」   右面「面高ヘ六里二分」 左面「長崎へ九里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1m

写真  6〜  8  西彼町八木原郷 JA長崎せいひ大串支店先
正面「一里標」   右面「面高ヘ三里二分」 左面「長崎ヘ十二里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1.1m

写真  9〜 11  西海町黒口郷 西海市西海公民館正門右
正面「十五里標」 右面「長崎ヘ十五里」 左面「面高へ二分」 裏面「長崎縣」
17cm角  高さ0.9m

写真 12〜 14  西海町黒口郷 西海市西海歴史民俗資料館 3階展示品
正面「十四里標」 右面「面高ヘ一里二分」 左面「長崎へ十四里」 裏面「長崎縣」
17cm角  高さ0.9m

写真 15〜 17  大瀬戸町多以良内郷 道目木集落
正面「一里標」   右面「面高ヘ四里八分」 左面「瀬戸へ二里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1m

写真 18       基点?の西海町面高港
外海に面した面高港は、天然の良港である。岬の海岸線は屈曲し、奥行1000m・幅500mの湾内は、台風時の避難港として早くから知られていた。陸路においても、長崎市から西彼杵半島の県道終点であった。旅館や遊郭が立ち並ぶなど、町は海陸共に交通の要所として繁栄した。(西海町郷土誌5頁)   

八人ヶ岳公園  西海市西彼町平山郷

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八人ヶ岳公園  西海市西彼町平山郷

西彼町大串から大瀬戸への県道12号線へ入り、登って行くと右に西彼杵広域農道(オレンジロード)入口がある。県道の途中に「琴平麗水」、広域農道へ入って1km位の所に「八人ヶ岳」公園入口、広域農道のさらに1km位先に石鍋製作跡が橋下にある「石鍋橋」がある。

八人ヶ岳は標高218m。西海市ウェブサイトによる説明は次のとおり。山頂展望台駐車場に行く途中に、西彼町民話の「鯖くされ岩」があった。

八人ヶ岳公園
西彼エリアの中央山稜に位置し、大村湾全体を眺望できます。古くから西彼杵半島の武者相撲が行われており、頂上には展望台と土俵が設置されています。

鯖くされ岩 (現地説明板)
由来 昔瀬戸の漁師が魚を行商に行く途中、目の前の大きな岩が今にもくずれそうなので、くずれるのを待って一服していたら、とうとう魚が腐れてしまったていう平山郷に伝わる民話です。